※当ブログの趣旨※

※当ブログの趣旨※

某映画雑誌編集者との酒の席で「映画レビューを書くべき」と勧められ、「チラシの裏で良ければ」と開始した、基本は身内向けの長文ブログ。
決して知識が豊かとは言えないライト映画ファンが中の人です。

・作品を未見の方には、(極力ネタバレせず)劇場に足を運ぶか否かの指針になれば
・鑑賞済みの方には、少しでも作品を振り返る際の余韻の足しになれば

この2点が趣旨であり願いです。定期的にランキングは付けますが、作品ごとの点数付けはしません。
作品によってはDISが多めになります。気分を害されましたらご容赦下さい。
たまーに趣味であるギターや音楽、サッカー観戦録、スノーボードのお話なども登場します。

2012/03/24

(いまさら)長文映画レビューシリーズ 『ミレニアム2 火と戯れる女』




ミレニアム2 火と戯れる女

敏腕ジャーナリストのミカエルと天才ハッカーのリスベットが協力し、大富豪バンゲル家で起きた連続殺人事件を解決してから1年。リスベットはこつ然と姿を消したままだったが、少女売春組織を追っていたジャーナリストの殺害現場でリスベットの指紋がついた銃が発見される。無実を確信するミカエルは、仲間とともに事件の真相を追うが……。
ーーー映画.comより抜粋


デヴィッド・フィンチャー版の『ドラゴン・タトゥーの女』を鑑賞して以降、すっかりリスベット・シンパに成り果てております。スウェーデン版の『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』もミステリーとして最高だったので、早くミカエルとリスベットの凸凹コンビに会いたい!と。二人の活躍をもっと見せてくれ!と。意気揚々とレンタルで鑑賞したわけです。

結果、この「もっとミカエル&リスベットの活躍を見せてくれ!」という期待は、盛大に裏切られることとなりました。

少し髪が伸びたリスベットが相変わらず美しいし、「リスベットは殺していない」と断言するミカエルも超カッコイイ。リスベットに助けられた前作と逆転して、ミカエルがリスベットを助け出そうとする展開なのか!燃える!!早く二人でタッグを組んで、謎を解き明かしてくれ!

…と序盤は身も心も前のめりで鑑賞していたものの、主役二人の物語のクロスをラストのラストまで溜めこむ作りに、中盤からはやや退屈さを覚えてしまいました。それ故に、ようやく二人が一年ぶりに邂逅するシーンでは、形容のし難い感動に襲われるのですが、なんぼなんでも“溜め過ぎ”なのでは…?

徹底して男性を最低のクソとして描くアイデンティティは根底にしっかり流れていて、これぞミレニアム!という雰囲気を感じる事も出来るものの、どうも演出がチープでテンポが悪い。180分があっという間だった『ドラゴン・タトゥー』からどうしてこうなった?と思っていたら、案の定前作からは監督が交代していたんですね。

特に格闘シーンのテンポの悪さは顕著。“無痛症の木偶の坊”という、いくらでも魅力的に描けそうなキャラも、ただの鈍重な間抜けにしか見えなくなっているのはいただけない。ラストに至ってはあの金髪、ほぼ居なかったかの様な扱いにされてるし。

命の恩人であるリスベットを蔑ろにして、愛人と現を抜かしていたミカエルが、ようやく彼女の抱える傷の深淵を知る事こそが最大のテーマなので、「二人の活躍で痛快な謎解きが見たい!」とか「二人の不思議な恋の行方も気になる!」といった様な期待には、ハナから一切応える気が無い作品なんですね。「ミステリーに寄せる気も有りませんよ?」と作り手から言い放たれた気すらしました。


<結論>
そもそもミステリーですらなくなって、ミカエルがリスベットの抱える痛みの多さに(いまさら)気付く為の130分。それはそれとして楽しむ事は出来るのですが、やはり二人の凸凹タッグ復活に大きなを期待していた分、多少興が削がれた気はしてしまいます。噂では聞いていたものの、世の“三部作”の系譜にありがちな、“3の為の2”として大胆に割り切って作られている印象でした。それはそれでとっとと3を観たくもなりますし、これだったらフィンチャーに思いっきりキャラをデフォルメして作ってもらった方が、2作目以降は面白くなるかもな…という希望を持つ事も出来ましたね。1作目だけで投げないでね、フィンチャーさん。


この『火と戯れる女』の続編にして、ミレニアムサーガの最終章となる『眠れる女と狂卓の騎士』を次のレビュー…としたいところなのですが、時間の都合で次回の作品は『スーパー!』のいまさらレビューとなります。

2012/03/21

長文映画レビューシリーズ 『ヤング≒アダルト』




「JUNO ジュノ」の監督ジェイソン・ライトマン&脚本家ディアブロ・コーディのコンビが、主演にアカデミー賞女優シャーリーズ・セロンを迎え、再タッグを組んだコメディドラマ。児童小説家のメイビスは、夫と離婚後すぐに故郷ミネソタに帰ってくる。そこで、かつての恋人バディに再会し復縁しようとするが、バディにはすでに妻子がいて……。


「こんなに必死に生きてきたのに、この空虚さは何だ?」
「形だけのラグジュアリーを手にして、それが成功か?」
そして…「大人になるってどういう事だ?」

そんな普遍的で身に沁みるテーマを描き、答えは作品内で提示する事無く観客に投げかける、ジェイソン・ライトマン監督の前作『マイレージ・マイライフ』の大ファンとして、かなり期待値高めで劇場に足を運びました。タイトルを見てお分かり頂ける通り、本作『ヤング≒アダルト』は…

「“大人”ってどういうこと?」
「あなたは理想の“大人”になれたの?」
「あの頃の自分の方がよっぽど輝いてたんじゃないの?」

…というストレートなメッセージを、残酷なまでにこれでもかと投げかけて来ます。今更どうする事も出来ない、“過去の自分”に、少しでも縋ってしまう瞬間がある人なら、間違い無く楽しめる傑作でしょう。

ただ、あちこちで本作の評価として使われている通り、とにかくあらゆる意味で「痛い!」作品でもあります。見るに堪えないくらい痛いんだけど、どこかで主人公とリンクしてしまって、気付けば「これは…俺の(私の)物語なんじゃないか…?」と思わされてしまう、恐ろしい引力。その引力のせいで、物語のクライマックスでは主人公と自分との落差を感じてしまうリスクもあるのですが…その点は後述したいと思います。

本作の面白さはオープニングに見事なまでに集約されていました。Youtubeにも上がっていたので貼っておきます。過去に捕らわれた主人公が、きょうびカセットテープを引っ張り出して聴いている事自体が象徴的なのですが、テープもプレイヤーも“まだちゃんと動く”ってところが巧いし、ハリウッド版のドラゴンタトゥー並みにカッコ良いオープニングでした。




※以下、多少のネタバレが含まれます※



本作の主人公メイビスは、偏ったキャリア志向だし高飛車だしすぐ嘘吐くし、自分に都合の悪い意見は完全シャットアウトして、ちょっと自分を誉めて肯定してくれただけで絶望からも立ち直る超自己中。自己顕示欲の塊が服来て歩いている状態。おまけにビッ●でヤリマ●(作中で出てくる形容ですよ。念のため)のロイヤルストレートフラッシュ。それなのに気付けばコイツを憎めなくなるのが映画マジックであり、本作最大の見せどころ。

美人で、仕事も傍から見れば(日本で言えばラノベかケータイ小説に当たる“作家”で、誰よりメイビス当人がその分野に満足していないものの)充実している、正に才色兼備。
…と見せかけて、飼い犬への餌は手抜きだわ、切れかけのプリンターインクは唾液で水増しするわ、見栄張ってホテルのカードキーは2枚頼むわ、自分の話ばっかりしたがるわ、他人の幸せを自分の都合のみで破壊しようとするわ、おまけにそれが相手の幸福にもなると勝手に思い込んでいるどうしようもないヤツ。だからこそ、それだけこのキャラに引っ掛かるフックが沢山用意されているとも言えて、全てはとても書き切れませんが、キャラの描き方は見事の一言に尽きます。

過去の栄光に縛られているメイビスの鏡として、過去の屈辱に縛られているマットとの対比が象徴ですね。
メイビスに面と向かって「君は狂っている」と言えるのはマットだけで、陰惨過ぎるトラウマで障害を抱え、オタク化しているマットに「もっと早く歩いてよ」と言えるのもきっとメイビスだけ。かつてはヒエラルキーの頂点と底辺に居た者が、現在では唯一の理解者として認め合えてしまうこの構造は、歪ではあるけども互いの救いとして感動的でした。

そうしたキャラの積み上げが実に見事であるが故に、クライマックスでのメイビスの暴走で「そこまで生き恥を晒してやるなよ!」と、スクリーンに向かって叫びたくなる。そこまで存分にメイビスに感情移入してしまっているので尚更、主人公を惨めな晒し者にされた様な気がして、「痛い!胸糞悪い!痛い!酷過ぎる!」と憤然としてしまうのですね。

ここでそれまで観客に知らされていなかった重大なメイビスの過去も暴露されるので、宇多丸師匠の番組で紹介されたメールにもあった通り「これは俺の(私の)物語ではなく、メイビスのパーソナルな物語なのでは…?」と、強烈に作品から突き放されたような落差を感じてしまう。個人的な好みの話ですが、あんなにもヤケクソ赤っ恥シークエンスにすること無いのに…もったいないなぁ…と、奥歯に物が挟まったような消化不良感を覚えてしまいました。

ただそんな消化不良感すらも、おそらくは制作者側の思惑通りで、「だからあんなにも赤ちゃん画像に食いついてしまったのか…」と、冷静に序盤を振り返る事で腑に落ちるシーンが沢山あるんですよね。巧いなぁと言うしかない。そして自分の味方に心情を吐露して、同意を得ることで(多少の反省もしているのだろうが)完全復活を果たすメイビス。痛すぎる赤っ恥をかいても、30年以上積み重ねた己の性格はそうそう変えられない。凹んだ車同様、自分もすっかりポンコツになっちゃったけど、それでも………

「まだ走れる!!」

こんなにも歪でどうしようも無い主人公に、なんだかんだで背中を押されてしまう、素晴らしい作品だったのではないでしょうか。オープニングとの対比も最高です。

<結論>
三歩進んで二歩下がっちゃったけど、また一本踏み出そう、踏み出すしかねーんだよ!そんなラストに、同じように踏んだり蹴ったりの日常を生きる我々もまた、一歩踏み出す力を分けて貰える。映画のマジックを存分に味わえた傑作でございました。
ただし、やっぱりクライマックスは痛すぎる。そして最終的にマットの扱いが不憫過ぎる。ほんのワンカットでも良いから、その後のマットにも触れて欲しかったのに放ったらかしだから、「結局メイビスって最低最悪じゃん!!」と集中砲火を浴びても言い訳が出来ない気がします。だとしても、鑑賞後に自分の恋愛観や人生観を多いに語り合いたくなるという意味で、やっぱり映画として傑作だと思うのです。それまでの自分の人生によっては、生涯最高の作品となる可能性すら秘めているのでは。ぜひ騙されたと思って劇場へ!!


次回はスウェーデン版「ミレニアム」の2作目をいまさらレビューの予定です。

2012/03/19

(いつも以上に)長文映画レビューシリーズ 『おかえり、はやぶさ』




世界で初めて地球から3億キロ離れた小惑星イトカワの微粒子を採取して地球へ帰還した無人小惑星探査機はやぶさと、そのプロジェクトに携わった人々のドラマを全編3Dで映画化。18年間に及んだプロジェクトを、計画に携わった人々の親子の絆や再生を交えながら描く。監督は「ゲゲゲの鬼太郎」「鴨川ホルモー」の本木克英。


過去の『はやぶさ』関連作品を全て鑑賞してしまった為か、この作品だけは嫌でも観なければならない強迫観念に捉われ、3Dで(評判の宜しくないXpanDではありましたが)じっくり見届けて来ました。劇場を出た後には、映画への感想はともかくとして、「やった…おれはやってやった…!」と、“はやぶさクロニクル”の全てを目撃した自分を最大限労ってやりました。

当方の『はやぶさ』へのスタンスや過去作への評価は、前作に当たる『はやぶさ 遥かなる帰還』のレビューをご参照ください。堤幸彦版、渡辺謙版、そして今回の3D版と劇場用の三作ばかりが話題を集めていますが、全天周版のことを絶対に忘れないで下さいね。ちゃんと映画館でも上映されたんですから。そして今回の『おかえり、はやぶさ』を見終えての感想は、この一言に尽きます。

“はやぶさクロニクル”は、やはり全天周版こそが至高!!



※以下、多少のネタバレが含まれる上、史上最長クラスの長文となりますので、興味の無い方は読み飛ばして下さい。興味ある方も斜め読みをオススメします※



かなり子供向けに振り切った作りになっているのだろうと覚悟はしていたものの、のっけからいきなり藤原竜也が重々しいトーンで

「奇跡の惑星、地球…」

とかモノローグし始めた時には、何かの啓蒙映画か宇宙戦艦ヤマトでも始まるのかとソワソワしてしまいました。デフォルメされた『はやぶさ』に前田旺志郎を跨らせたCGにも心底ギョッとさせられましたが、子供たちに『はやぶさ』を説明するくだりで大塚愛のあの曲が流れる場面に至っては…「そのシーン、要る?!」と脳内で叫ばずには居られず…。

あぁやっぱりか、と。分かってた事じゃないか、と。開始10分ほどで、半ばこの作品を楽しむ事を放棄しかけました。子供たちがこの映画を観て、何かしらの夢や希望を胸に映画館を後にしてくれれば良いじゃないか、と。…が、しかし。前述した通り、中盤までは意外や意外に相当楽しめました。このまま行けば、無事に“着地”してくれれば、少なくとも今年公開の邦画の中ではトップクラスで良いんじゃないの?と思えるまでに。

まず特筆したい点として、プラネタリウム的な宇宙の描写と3D演出って、とっても相性良い!!
これは個人的には新鮮な発見でした。と言うのも『アリス・イン・ワンダーランド』を観た時に当時のブログにも書いたのですが、「飛び出す」よりも「奥行きが出る」という表現の方が近い3D演出に於いて、せっかくの色使いや美しい背景が遠く、暗くなってしまうのはデメリットの方が大きいのではないかと、ずっと感じていたのです。それこそ『アバター』レベルの予算を掛け、3D演出前提で制作された作品をIMAXなどの優れた環境で観れば話は別ですが。

ところが、背景は殆ど暗闇である宇宙空間であれば、スクリーンがどうしても暗くなってしまうXpanDで観てもそれほど違和感が無い。『スターウォーズ』みたいに、スピーディー且つ壮大な宇宙戦が展開されるわけでもないですから、悪く言ってしまえば誤魔化しが効く。『はやぶさ』と一緒に宇宙にぽっかりと浮いているような感覚が味わえましたし、『アバター』以外の作品では初めてと言っていいくらい、3D効果を純粋に楽しめました(あくまで宇宙空間の演出部に限りますが)。

そして目からウロコだったのは、『はやぶさ』関連作ではすっかりお馴染みの「はやぶさ擬人化作戦」を、「さぶっ!」と主人公の口から直接的にDISる点。かと言って「擬人化」に夢を抱く側(本作で言えば杏)を一方的に切り捨ててしまうのではなく、ちゃんとその発想に至るキッカケも掘り下げてくれる。これはなかなか粋な演出だったのではないでしょうか。三浦友和と藤原竜也親子が決定的に対立してしまうシーンもなかなか良く出来ていて、本作のテーマもここで堂々と掲げられます。『遥かなる帰還』の「俺たち普通の日本人の技術の結晶が、この奇跡を生んだ!」というカタルシスに対して、本作は「どんな大失敗も、諦めなければ大成功に繋がる!」(キリッ)という、一種のリベンジ劇に重点を置くんですね。むしろここまで来ると「子供向け作品でここまで掘り下げていいのか?」と余計な世話を焼きたくなってくるレベル。自分が10歳児だったら確実に寝てますね。 


しかしながら残念なことに、返す返すも後半が酷い。他作品に『はやぶさ』映画化の先を越され、焦るあまり雑にお話を畳みにかかったのではないかと邪推したくなるくらい。

とりあえずそんなあっさり海外でドナー見つけるなよ
「宇宙プロジェクトは失敗しても直ぐ次のプロジェクトに(しかも税金で)移行できるが、人命はそうはいかん」という提示が一瞬で軽くなる。それでなくても、小学校低学年の教科書かよ!ってレベルで、セリフも演出も説明的に作られている作品なのに、人命までご都合主義で扱われたらさすがに腹が立ってきます。あんなに意固地だった三浦友和もあっさり講演に復帰しちゃって、しかもその講演は少ししか描写しないし…。

要するにですね、『はやぶさ』がいざ帰還するぞ!っていう映画のクライマックスを迎える前に、登場人物たちの問題はあらかた片付いちゃってるんです。それなのに超説明的なセリフが引き続き羅列されるので、もういい加減白けてきちゃって、いよいよ本当に啓蒙されているような、プロパガンダを見させられているような気分すらしてくる。挙句「私達に、『新しい道はこっちだよ』って示してるみたい…」と勝手な概念を押しつけるセリフが放たれた日には…。それは絶対にセリフにしちゃダメだろうがよ!!!

そもそも映画館にわざわざ観に行く層の殆どは、『はやぶさ』のストーリーの着地点はとっくに知ってるでしょう。満身創痍で地球に辿り着いて、「最後に故郷を見せてあげよう」って写真撮って…………そのクライマックス、いい加減食傷です。


「ま、子供向けだからさ」って挙げた拳を下ろす事もやぶさかではないのですが、だったら群像劇に拘らないで、もっとディテールを積み重ねて養育番組的に練り上げて、視覚効果を更に徹底して追及すべきだったのでは。繰り返しますが、絶対にあの中盤で子供は飽きますよ(現に並びのお子さんは気持ち良さそうにお眠りになってたし)。子供を楽しませる事も中途半端で、保護者層にはご都合主義を押しつけてちゃあ世話ねぇよ、と。

大気圏で燃え尽きた『はやぶさ』を見る事で、三浦友和はもう一度宇宙に思いを馳せ、講演を再開するなり復職するとか、ドナーはなかなか見つからないけど、それでも奇跡を信じて強く生きようとか、ちょっと演出の配置と順番を変えるだけで全然良くなると思うんですけどね。それでエンドロールで、元気になった三浦友和や森口瑤子を描写すれば良いじゃないですか。少なくとも、カンニング竹山に取って付けたようなプロポーズをさせたり、劇中最後の最後がダントツで「サブい」わ!!と言わざるを得ない、どうしようもないセリフで幕を閉じて「はい、群像劇でしたよ~」っていう、文字通りの“子供騙し”をされるよりは。

『遥かなる帰還』では中途半端な扱いだった「はやぶさが見つかるパーセンテージ」のトリック(実際は「条件が揃うパーセンテージ」)をやってくれたのは嬉しかったし、これ以上ないくらいイヤミな“蓮舫DIS”には「よくぞ言った!」と賛辞も贈りたい

それらの長所を全て帳消しにしてしまうくらい、後半はグダグダ。そして、あまり周りで言及されている方が居ないのですが、特に終盤の「音楽」はヤバくなかったですか?。エキセントリックとかいう域を超越しちゃってて、ちょっと正直恐ろしくすらなりましたね。御大・冨田勲さん、どうしちゃったんでしょうか…。




<結論>
「はやぶさは映画より奇なり」とでも言いますか、やっぱり劇映画と『はやぶさ』の食い合わせは悪い。何回も言いますが『はやぶさ』の物語は、びっくりするくらいご都合主義で、「奇跡」に限りなく近い現実が実際に起きたんですよ。だったらそれを取り巻く人間ドラマは、できるだけ脚色し過ぎない方が良くないですか?そう何回も起きないから、奇跡に価値があるのでは?

それが嫌なら、もっともっと思い切って子供向けのディテールを積み上げるか、やはりドュメンタリーにすべき…って事で全天周版こそが至高!という結論に行き着きますね。

これにて、“はやぶさクロニクル”はひとまず完結。思い入れが強い分がっつりと書き込みましたが、まさかここまでの長文になるとは…。駄文に最後までお付き合い頂いた奇特なみなさん、ありがとうございました。ごめんなさい。“ボロをまとったマリリン・モンロー”は、どこに着地しましたか?

次回はおそらく『ヤング≒アダルト』となる予定です。多分。公開が終わらなければ!ダッシュで鑑賞して、更新します!!

2012/03/18

(いまさら)長文映画レビュー 『ゴーストライター』



元英国首相アダム・ラングの自伝執筆を依頼されたゴーストライターが、ラングの滞在する孤島を訪問。取材をしながら原稿を書き進めていくが、次第にラングの過去に違和感を抱き始める。さらには前任者の不可解な死のナゾに行き当たり、独自に調査を進めていくが、やがて国家を揺るがす恐ろしい秘密に触れてしまう。「チャイナタウン」「戦場のピアニスト」のロマン・ポランスキー監督が描く本格サスペンス。
ーーー映画.comより抜粋


ここのところの多忙で更新がすっかり滞ってしまいました。怠けてごめんなさい。

前回予告した通り、一部では「2011年ベスト映画!」との呼び声も高い本作のレビューと行きたいところなのですが、いかんせん鑑賞したのが1週間以上前で、感想をまとめたメモを手違いで破棄してしまうというグダグダっぷり。手元に残っているのは、当記事の下書きとして記されていた、この二言のみ。


ヒッチコック、ブレア首相


これだけで、本作を鑑賞した方には伝わるモノもある…はず…ありますよね?

そんな訳で、今回は非常に恐縮ですが、超短縮系レビューで強引に完結しようと思います。普段が無駄に長過ぎて、見て頂いている方の9割が記事の9割5分を読み飛ばしている事で有名な当ブログですからね。問題無いですよね。では早速結論です。


<結論>
・エンディングが超かっこいい!!!
・それ以外は…まぁ…うん。
(監督がアメリカに入国出来ない事情があるにせよ、ちょっとCGが目立ち過ぎた)

ヒッチコックリスペクトに溢れた巻き込まれ型サスペンスとして、非常に上質の物語だとは思います。ただ前評判を耳にして過度な期待を抱いてしまった部分もあり、もう一つ作品にノリ切れなかったのが悔やまれるところ。…以上!!!


次回はいよいよ“はやぶさクロニクル”完結編、『おかえり、はやぶさ』を懲りない長文でお届けします。

2012/03/04

(いまさら)長文映画レビュー 『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』



ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女

スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンの処女作にして遺作となった大ベストセラー小説の映画化。原作は、著者の死後、世界中で2100万部を売り上げたミステリー巨編。主演は新星ノオミ・ラパス。40年前、スウェーデンの資産家の邸宅から忽然と姿を消した少女がいた。少女の親族から捜索依頼を受けたジャーナリストのミカエルは、背中にドラゴンのタトゥーを入れた天才ハッカー・リスベットの協力のもと、事件解明に挑む。
ーーー映画.comより抜粋


ハリウッドリメイクである、デヴィッド・フィンチャー版の『ドラゴン・タトゥーの女』が素晴らしかったので、本家スウェーデン版も早速レンタルして鑑賞。今回はそのハリウッド版との対比をメインとした語りになりますが、最も顕著な違いにして最大の長所であるのはこの点。

ミステリーとして、めっっっちゃめちゃ面白い!!!

ハリウッド版のレビューでも触れた通り、フィンチャーの『ドラゴン・タトゥーの女』はやはり、キャラクターの造形にかなりウェイトを傾けて作られていたんですね。ミステリーとしての謎解きとか人間ドラマは二の次にして、相当キャラを(悪く言えば)デフォルメしてリメイクしたんだな、と。スウェーデン版が本格ミステリーだとしたら、ハリウッド版はちょっとアメコミ的ですらあるというか。

当方はハリウッド版のリスベットが「超」が付くぐらい大好きですが、このスウェーデン版はミステリーとしての完成度がメチャクチャ高い。DVDでは劇場未公開シーンを加えて、180分を越える収録時間になっているのですが、その分設定や人物の紹介が実に丁寧に説明されていて、どんどん続きが気になってしまうストーリーテリング。長尺を全く感じさせない大傑作でした。これを観たら(そして原作小説のファンなら)ハリウッドリメイクの“デフォルメ過多”に違和感を覚えてしまうのも無理もないですね。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


逆にハリウッド版も「思ったより忠実に作られていた部分もあったんだな」と気付くシーンも多々あります。作中で使われるメインPCが軒並みMacだったり、壁に写真を貼って相関図を作るのもそうだし、特に序盤は展開やカットの作り方までそっくりでした。ハリウッド版の方が面白くなっていた要素もあって、リスベットの後見人弁護士なんかはデフォルメがされた分、ハリウッド版の方がより最低最悪の下衆野郎として機能していたと思うし、これもレビューで挙げましたが“エスカレーターアクション”はハリウッド版のオリジナルアイデアなので、あれはやっぱり良かった。

このスウェーデン版は、当方の様なあまり積極的にミステリー小説を読んだりしない層にも、物凄く分かり易く物語の中へ誘ってくれるのが、まず好印象。真犯人が分かっている状態で見ると顕著なのですが、序盤で「誰が真犯人なのか」をさりげなく匂わす作りにも、思わずゾッとさせられました。

何よりも主要の登場人物の掘り下げが本当に丁寧で、それだけでグイグイ引き込まれてしまいます。実はミカエルと「ハリエット」との間に、幼少の頃からの“因縁”があった点は、「闘争相手の弱みを教える」という人参をぶら下げる事でミカエルが動き出すハリウッド版と比較しても、この物語が転がり出す動機としてより絶妙に機能していました。真犯人も「ちゃんと」下衆野郎として見る事ができますので、ハリウッド版の「真犯人ショボ過ぎ問題」が浮き彫りになりますね。

唯一イチャモンを付けるとしたら、ラスト近辺のとある場面で、ミカエルがグラサンを付けてたり外してたりして“繋がり”が崩れているシーンが気になってしまったくらい。これはいくら「完全版」とは言えども、カットすべきシーンだったのでは。ま、笑って許せるレベルなんですけど。

<結論>
人物を丁寧に丁寧に掘り下げている事で、ミステリーとしても人間ドラマとしても全編を通して深みがあります。ラストのカタルシスもこれによって非常にダイナミックになってますし、速攻で残り2作も鑑賞したくなりました。
ハッキリ言って、ハリウッド版より面白い!!とすら思います。あちらはフィンチャー特有の悪趣味が発露され過ぎているきらいもあったし、やっぱり「ネコ」をあんな扱いにしやがった罪は重い。リスベット単体の“フォルム”で言えば、ハリウッド版の方が断然魅力的なんですけど、それってやっぱりアメコミ的な魅力だったなぁと再確認致しました。


これにより、ミレニアムシリーズの続編『火と戯れる女』、『眠れる女と狂卓の騎士』も近々レビューする事になりそうです。その前に、次回の更新は2011年上映作でベストとの声も聞かれた『ゴーストライター』の、いまさらレビューとなります。

長文映画レビューシリーズ 『ヒューゴの不思議な発明』




ブライアン・セルズニックの冒険ファンタジー小説「ユゴーの不思議な発明」を、マーティン・スコセッシ監督が3Dで映画化。駅の時計台に隠れ住む孤児の少年ヒューゴの冒険を、「映画の父」として知られるジョルジュ・メリエスの映画創世記の時代とともに描き出す。主人公ヒューゴを演じるのは「縞模様のパジャマの少年」のエイサ・バターフィールド。イザベル役に「キック・アス」「モールス」のクロエ・モレッツ。2012年・第84回アカデミー賞では作品賞含む11部門で同年最多ノミネート。撮影賞、美術賞など計5部門で受賞を果たした。
ーーー映画.comより抜粋

予告編を観た限りでは、「何でこんなに前評判が高いのだろう」と疑問に思っていた作品。スコセッシの集大成にして最高傑作!なんて推しがあちこちでされる理由を確かめるべく鑑賞して参りました。結果、雑誌やらネットやら映画評論家やらが褒めそやす理由はよく分かりました。いつも通りものすごく乱暴に一言でまとめると、こんなところ。

いやぁ、映画って、本当にいいものですね~(しみじみ)

…と、草葉の陰から水野晴郎さんが微笑み掛けているかの様な作品なんですね。
それも、当ブログでも取りあげた『宇宙人ポール』的に、要所で名作映画へのリスペクトを散りばめるというよりも、もっとストレートに映画の素晴らしさを語り聞かせるスタンス。そりゃ映画関係者は腐すわけにはいかないよね。いや、実際面白かったんですけど、正直そこまで誉めるか~?と、前評判の高さ故に思ってしまった部分もあります。ただ、後述するある1点がパンチラインとなり、それだけで個人的には「観て良かった」と素直に思わされる事となりました。

尚、時間の都合で2D版を鑑賞してしまったのですが、あのジェームズ・キャメロンも太鼓判を押したという3D版でもう一回観直したいですね。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


3Dで観直したくなる最大の理由として、とにかくカメラワークが「楽しい!」の一言なんですよ。パリの上空から始まって、ヒューゴの顔にカメラが寄るまでをワンカットで見せるオープニングがその象徴で、実に正しいCGの豪華な使い方。画的なインパクトという意味でも構成的にも、当方はFINAL FANTASY VIIのオープニングムービーをちょっと思い出しました。これに限らず全編を通して、縦横無尽自由自在に動き回るカメラと、そして歯車を中心としたギミックの面白さは必見ですね。オスカーの“ルックス系”の賞を総ナメにしたのも頷けます。

ストーリーとしては、「映画の父」と呼ばれるジョルジュ・メリエスの物語を少年の目線で追う事で、『月世界旅行』の製作譚も同時に追う事が出来る作り。後付けで色を塗ったフィルムの独特の発色具合なども見所。
こういった、映画ファンが誉めちぎりたくなるような“映画愛”的レビューは、あちこちで様々な方が、こぞって自身の映画バックグラウンドを示す意味でも書き綴っていますので、是非色々閲覧してみてください。

先述した、当方が構造としての“映画愛”よりも、この作品で強く胸を打たれてしまったパンチライン、それは
「“ハッピーエンド”は映画の中だけのものなの?」
という問いに、
いや!そんなことはない!!
…と、はっきりと宣言する点ですね。でもそれだって映画の中のお話じゃん!って突っ込まれてしまうかもしれませんが、やっぱりエンターテイメントの基本は「笑顔」と「ハッピーエンド」に限る!と恥ずかしげも無く考えているタイプなので、スコセッシが正面切って「ハッピーエンド」を描き切った事に、素直な感動を覚えてしまいました。いや、もちろんピカレスクな話も好きだし、前回の更新の『ポエトリー』みたいな作品も好きですよ。でもせめてフィクションの世界だけでも「笑顔とハッピーエンド」が最高のエンターテイメントとして成立して欲しいじゃないですか。『宇宙人ポール』を「今年ベスト級!」と評価した最大のポイントはここにあります。

あまりの前評判の高さもあって、そこまで「大傑作!」と言い切るには、中盤ちょっとお話がダレるな~とか、全体的に登場人物がカリカチュアされ過ぎてないかな~とか、『(500)日のサマー』や『キック・アス』の頃のクロエ・モレッツたんは何処に行ってしまったのかな~とか、サシャ・バロン・コーエン大人し過ぎてつまんね~な~などなど、どうでもいい事も含めて言いたい部分も少なくは無いです。ただ、マーティン・スコセッシという映画バカが「映画、最高!!」と高らかに声を上げた、その意気は余りあるほど感じ取る事ができました。


<結論>
前評判を見て、映画ファンの為の“敷居の高い作品”と思われるかもしれませんが、決してそんな事はありません。音楽の使い方や演出の付け方は、日本人だったらジブリ映画的にも楽しめると思います。実際、カリオストロっぽい(とも言える)シーンもありますからね。今年の感動系大作映画の中では『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』と双璧を成す(構造も良く似てる)、上質な作品でした。アトラクションって言っても良いかもしれないですね。


次回はあの作品の本家スウェーデン版、『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』をレビューします。ハリウッド版とはまた違って、これまた素晴らしい作品でした。

長文映画レビューシリーズ 『ポエトリー アグネスの詩』



ポエトリー アグネスの詩

「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督が、アルツハイマー症に冒され徐々に言葉を失っていく初老の女性が一編の詩を編み出すまでを描いた人間ドラマ。孫息子ジョンウクを育てる66歳のミジャは、自分がアルツハイマー型認知症であることが告げられ、さらに女子中学生アグネスの自殺事件にジョンウクがかかわっていたことを知る。ショックを受けたミジャは、アグネスの足跡をたどっていくが……。
ーーー映画.comより抜粋


ちょうどテアトルの割引券を持っていたのと、イ・チャンドン監督の新作とあらば行かねばなるまい、という事で、かなり期待値が高い状態で鑑賞しました。平日の昼間の回だったにも関わらず、劇場は年配層を中心にかなりの入り。特に本作の主人公ミジャと同年齢くらいであろう淑女の皆さまが、鑑賞後に“割り切れない何か”を抱えて去っていく姿が印象的でした。

この『ポエトリー アグネスの詩』を語る上で、どうしても触れなければならないのが、監督であるイ・チャンドン氏の作家性。小説家出身らしい、独自色の強い作品を持ち味としていて、「難解ではあるが、物凄いモノを見てしまった…」と思わされる、こちらのみぞおちに強烈なボディーブローを放つ奇作ばかりを撮り続けてきた監督です。

なにしろですね、当方はイ・チャンドン監督の前作『シークレット・サンシャイン』に、オールタイムベスト級の思い入れがあります。平たく言えば、宗教の抱える矛盾への問題提起であり、「“救い”はあるのか?」というテーマを真正面から描き切った傑作中の傑作。『ぐるりのこと』の木村多江も連想させるような、人間心理の奥深さをこれでもかと表現するチョン・ドヨンの迫真の演技といい、緊迫感を見事なまでに創出する“長回し”といい、韓国映画らしい救いの無いお話…と見せかけて、最後の最後ではどこか温もりを感じられるストーリーテリングといい、ほぼ隙の無い素晴らしい作品。文字通り「天に唾吐く物語」を、クリスチャンの多い韓国で描いた事がまず凄いし、基本的には無神教に近い日本人にこそ“刺さる”物語でした。

で、『ポエトリー』も『シークレット・サンシャイン』の系譜を脈々と受け継いでいる…どころか、イ・チャンドン氏の独自色はさらに色濃くなって発露されています。極端に排除されたBGM、のどかな地方を舞台にした寂寥感、そして何よりも鑑賞後、みぞおちに突き刺さるボディーブロー。本作は『シークレット・サンシャイン』に輪をかけて強烈なラストが待ち構えていますので、その衝撃たるや、銀座をテリトリーとする淑女たちの視点が定まらなくなるのも必然と言ったところでしょう。

どうしようもなく寄る辺を失くした女性が、“詩”に救いを求めるお話。しかし…


多少のコメディ演出も挿入されているにも関わらず、もう本当に「寄る辺ない」お話でした。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


冒頭はですね、同じ韓国オバサン系傑作映画(当方が勝手に言ってるだけです)『母なる証明』のキム・ヘジャの印象が後を引いてしまっていたのか、主演のユン・ジョンヒさんのお芝居がどこか平べったく見えて「ん?」と違和感を覚えていました。でも日本で言えばこの人、市原悦子さんそのものじゃなかろうかと思えてからは、この違和感は解消され、むしろ愛着すら湧いてきました。

や、選んだ画像に問題があるかもしれませんが、本当に雰囲気がそっくりなんです。

そしてこの少し平べったく見えるお芝居すら、娘を「友達」と呼び、問題の本質から目を背け逃避してしまう主人公ミジャの“弱さ”の表現として、監督の狙い通りだったと気付かされてしまいます。『シークレット・サンシャイン』でも、序盤から既に主人公の“病巣”をほのかに匂わせていたのと同様ですね。どこまでデキる男なんだ、イ・チャンドン。

とにかく極端にBGMが抑えられた静かな演出とあいまって、ミジャのあまりの寄る辺なさに胸が痛みっぱなしなわけです。遂に“ある一線”を超えてしまうシーンに至っては…「この映像、誰得!?」と胸の中で叫ばずには居られませんでした。まさかここまで、ある種のエクストリーム映像を見せつけられるとは…。
詩の勉強会のシーンも本当に胸が痛くて、「幸せな瞬間は…無かったです」と話すオッサンに「生きろ!」とこれまた叫びたくなる。ミジャもミジャで涙ながらに話す“最も幸せな瞬間”、それ物心ついた直後じゃねーかよ…。もうね、不憫としか言いようが無いんです。

『シークレット・サンシャイン』の登場人物たちは、明らかに宗教で救われてもいます(そこが単純な宗教DISではなく、問題提起たらしめている要素)。そして本作も、主人公は詩に逃避し、最初は「詩なんて分からない」と言いながらも、要所で確実に救われてもいる。それでもどうしても、その詩の世界にすら自分の居場所が無いと気付いてしまう。ラストだけは、まだ温もりが感じられた『シークレット・サンシャイン』とは180度と言ってもいいほど対照的。やはり、寄る辺ない…の一言でした。最後のミジャのあの詩、よく見ると色んな所で聞いた詩のつぎはぎだったりしてますしね。

<結論>
本作も相変わらず、鑑賞後に「楽しかった!」「感動した!」「泣けた!」なんて軽々しく口には出来ない問題作でした。“説明”は意識的に省かれているし、わかりやすい善も悪も存在しません。またラストにより救いが感じられない分、個人的な評価は『シークレット・サンシャイン』を上回るものでもありませんでした。
しかし間違いなく超強烈なボディーブローが飛んで来ますので、韓国映画ファンや、ありきたりな感動超大作系の映画に食傷気味の方は、是非劇場に足を運んで観て下さい。本当に強烈です。


次回は、『ポエトリー』とは真逆と言っていいほど、これでもかと「エンターテイメント」の正道をやりきった『ヒューゴの不思議な発明』のレビューとなります。ちょっと結論めいた事を言ってしまいますが、エンターテイメントに於けるハッピーエンドの重要性を痛感させられた、素晴らしい作品でしたよ。

2012/03/01

W杯アジア3次予選 日本vsウズベキスタン戦 雑感



今回は備忘録として。

■敗因

(1)海外組が移動、直前合流によりコンディション不良
(2)国内組もJリーグ開幕前で仕上り不足
(3)特にチームの心臓である遠藤保仁の低調
(4)交代投入選手が全く試合に入れず

まぁ色々とエクスキューズはあるものの、まず根本として、ウズベキスタン、強い。
思えば南アW杯の最終予選でも同組となり対戦した際も、ホームでは命からがらドローに持ち込んだ展開(先発で起用された香川はほぼ何も出来ず)。アウェーでの対戦は、中村憲剛の見事なアシストに飛び込んだ岡崎慎司が押し込み先制したものの、以後は一方的に圧倒され続け、耐えに耐えて南ア行きチケットを手にした試合でした。

昨日の試合もボランチの位置から縦パスが入ると必ず複数人でチェックに行き、前を向かせずボールを下げさせる。これを(疲労で多少緩む事はあっても)90分徹底していました。サイドはある程度やられても、そこまで精度の高いクロスが供給される事は多くない。だから中には切れ込ませないようにすれば、あとは中央の長身選手(昨日で言えばマイク)をしっかりマークしておけばOK、と。
主力を欠きながらこのクォリティで試合を進められるなら、ウズベクは今や、最終予選で争われるW杯へのチケット枠「4」に間違い無く絡んでくる強豪に成長した事は疑う余地が無いですね。

で、我らが日本はと言えば、パスの出所である遠藤保仁が仕上がっていない為、大きな展開も中々作り出せず。だから一旦中央で香川が下がってボールを受けるのだけど、ウズベクはそこを狙って執拗に絡み取りに来るので上手くいかない。時折、内田篤人や長友佑都の個人技でサイドを崩す事は出来ても、中は抜群の集中力で守り続けるウズベクDF陣に固められてしまっている。

ハーフナー・マイクは恐らく、ペナルティエリアの4~5m幅以上には大きく動かず、中央にしっかり位置取れと指示をされている。もう少し臨機応変に、楔のパスを受けに顔を出したりしても良かったとは思うが、この試合に限っては、シンプルに彼の高さを活かそうとはしなかった試合プランの進め方に問題があった様に思います。

とにかくウズベクは良く日本を研究していたし、プランを完遂するモチベーションも維持出来ていたし、彼らにとっては会心のゲームだった事でしょう。日本にとっては、ほぼ何も出来ず、完敗。毎年この時期の試合はピリっとしないものが多いし、幸いW杯本番までの時間は残されているので、このタイミングでアジア相手に「完敗」を味わえた事をプラスに変換して欲しいですね。


ただ、試合後に放送された某番組の影響か、ネット上ではフラストレーションをぶつけるかの様に議論が盛り上がっておりました。

・アジアの格下相手(北朝鮮、ウズベキスタン)に連敗したのだから、監督の責任問題!これで解任論が出ないのはおかしい!!
・この内容でスタジアムからブーイングが出ないのはおかしい!!“にわか”ばっかりで最近のスタジアムはヌルい!!

目にとまった意見には上記の様なものもありました。当方の意見は昨日Twitterで表明したのでここで改めて書く事はしませんが、特に「解任論」に関してはまだ性急かと。最終予選の立ち上がりにも躓くようなら、大鉈を振るう必要性もあるかもしれませんが。ザッケローニ監督はその経験上、我々が思う以上に自分が置かれている立ち場を理解している筈です。

で、「スタジアム論」に関しては、以前に当方も某所で長文を綴った事があって、色々と思う所もあります。特に古くからスタジアムに足繁く通い続けた来たサポーターからすれば、杓子定規に『バモ・ニッポン』を歌い続け、試合が終わればカメラ片手に選手へ近付こうと走り寄っていく様な姿を見せられると、「そうじゃねーだろ!!」と言いたくなる気持ちも分かるんです。でも我々がそうであったように、今、新しくスタジアムに足を運んでいる層も、あの空気に少なからず感化されている筈なんです。サッカー観戦の原風景として、刻まれるものがある筈なんです。

“コアサポ”と呼ばれる層も、“ミーハー”と言われる層も、“サッカー”という1点に於いてのみ、スタジアムでは確かに繋がっている筈なんです。双方から歩み寄る努力を止めるべきでないし、選手達は例え敗れてしまう事はあっても、観戦した者が何かを感じ取れる、また観戦したいと思わせてくれるプレーをピッチで披露して頂きたいものです。

2012/02/29

(いつも以上に)長文映画レビューシリーズ 『TIME』



TIME

「ガタカ」のアンドリュー・ニコル監督が、ジャスティン・ティンバーレイクとアマンダ・セイフライドを主演に迎えて描くSFアクションサスペンス。科学技術の進歩によりすべての人間の成長が25歳で止まり、そこから先は貧困層には余命時間が23時間しかない一方で、富裕層は永遠にも近い時間を手にする格差社会が生まれていた。ある日、ひとりの男から100年の時間を譲り受けた貧困層の青年ウィルは、その時間を使って富裕層が暮らす地域に潜入。時間に支配された世界の謎に迫っていく。
ーーー映画.comより抜粋


前回の更新で少し触れた通り、非常に論ずるのが面倒臭い作品です。なんせアンドリュー・ニコル監督という人物は独特の作家性をお持ちで、乱暴にその特徴を纏めてしまうと「予め決められた人間の優劣や拘束から脱却する」お話を作り続けて来た監督。映画デビュー作である『ガタカ』然り、脚本で参加した『トゥルーマンショー』然り、ある制約のある近未来的箱庭を設定して、登場人物がその箱庭を打破していくストーリーを一貫して描き続ける。本作でもそのアイデンティティは貫かれています。この『TIME』でのテーマも無理やり一言で要約すると…

非常に分かりやすい“資本主義DIS” と、見せかけて…

冒頭の作品紹介や予告編、TVCMを見てもお分かり頂ける通り、全編を通して言っている事はズバリ「TIME IS MONEY」。こんなアートワークも出されてます。



分かり易い。実に分かり易いテーマではありませんか。
寿命が可視化されたら…?一部の富裕層が「通貨」を独占していたら…?そもそも、この「通貨」の概念を持ち出したのは誰なのか…?
そんな“制約のある箱庭”に魅力を感じるなら、劇場で鑑賞する価値はあります。そこは断言できます。
ただね、テーマはこんなにも分かり易いのに、作品中では分かり易い着地をさせてくれないのが、この作品の面倒臭いところなんですよ。


※以下、今回はやや強めのネタバレが入りますので、予備知識無しで鑑賞したい方はご注意下さい※


この作品、主人公が義賊として富豪から金を奪って庶民に配る『石川五右衛門』になる…と見せかけて、そう安易に話は転がりません。富裕層区画に入り込んだ主人公が、高級ホテルのスイートでまったりしてるシーンを挟んだり、良かれと思って10年の“時間”を分け与えた親友が、その“時間”で酒に走り死んでしまったり…。富豪に「貧民に“時間”を与えたところで何も解決しない」という直接的なセリフを用いてまで、「通貨」を貧民に分け与える事≠良き事とする描写をちょいちょい挟み込んで来るんです。

で、「主人公の父親が何をしたのか」とか「そもそもこの世界の構造を造り出したのは誰なのか」といった、観客が「そこを知りたい!!」思うであろう要素を、中途半端に触れるだけで丸ごとスルーして、ボニー&クライドよろしく主人公達がとある施設を襲撃しようとするところで、本作は幕を閉じてしまうのです。

これはもう本当に、ものっっっすごい消化不良を起こします。なんでしょうね、「体制打破行き」の電車に乗ってたつもりなのに、いつの間にか終点では「ま、自分でなんとかしてよ」って言われて出発点に戻されていたような。ちゃんと起きていたのに降りるタイミングが分からなくて山手線を一周してしまったような。

とにかくラストの締め括り方が、この絶大な消化不良感の原因。前述したように、通貨」を貧民に分け与える事≠良き事の描写を入れておきながら、ラストは「通貨」の製造元を襲撃して“時間”を根こそぎ奪ってやろうという締め括り。それで格差社会が解決するべくもない事は、よほどの日和見主義でない限り明らかな筈です。

このラストのせいで、細かいディテールまで気になってしまいます。
互いに手を繋いで上下させるだけで、頭に念じた分だけの“時間”のやりとりが可能、という設定。そんな簡単に“寿命”がやりとりできてしまうなら、そもそもこの世界、成立しないでしょ、と野暮ったい事まで言いたくなる。皆が生きる為に必死になり、可能な限り力尽くで“時間”を奪い合うディストピアしか成立し得ないのでは?
終盤、100万年分の“時間”が詰まったカプセルをスラムの人々が分け合う描写があるのですが、常に死と隣り合わせで生きて来た人々が、そんな平等に仲良く“時間”を分け合うか?それまでの切迫から少しでも長く逃れる為に、可能な限り多くの“時間”を確保しようと、それこそ死屍累々の奪い合いが勃発しそうなもんです。

当方はよく、「映画が開始した時とは予想していなかった場所に連れて行かれるのが良い」とか「“答え”は観客に委ねるお話が良い」とか言ってますが、本作は「格差社会は嫌だから、あまり意味無いかもしれないけど、試しに銀行から金奪ってバラ撒くのってどう?」って世間話をされただけに過ぎない気がしてしまいました。仮にもこの状況を良くしようぜ!ってベクトルにお話を向けておいて、造幣局(らしき場所)をぶっ潰そうぜ!で締め括って良いのか?

<結論>
結局のところ作中の問題は何も解決されません。序盤の展開にそれなりの見応えがあるだけに、相当な消化不良に陥る可能性が高い作品です。「いやぁ…、格差社会って難しいよねぇ…」という、監督の世間話に付き合う心持ちで観れば十分に楽しめます。もし本作がシリーズ化されて、最終的にはこの世界の構造を打破する所まで物語が到達するのなら、続編も期待したいと思いました。

あああああああ、ほんっとに面倒臭い作品だった…。
次回も相当に面倒臭い、『ポエトリー アグネスの詩』です。
近日中に更新します。

2012/02/28

今後の更新予定

ぐっ、『ピアノマニア』が朝イチの1回上映になってしまった……。観に行けないかも……。

さて、今後の更新予定ですが、ちょいと仕事の関係で3月は投稿が滞るかもしれません。
時間さえ取れれば鑑賞予定の作品を挙げておきます。


TIME

この作品は実は鑑賞済み。非常に考えさせられるモノがある、見応えある作品でした。
ただテーマが少々厄介と言うか、正直マジメに語るのが面倒臭い作品です。良い意味で。
近いうちに頑張ってレビューあげます。

ヒューゴの不思議な発明

惜しくもアカデミーの主要賞は軒並み『アーティスト』に持って行かれてしまいましたが、録音・視覚・音響・美術・撮影という、ルックス系の受賞を総ナメした本作。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』と対を成すほど感動的なストーリーとの事なので、スコセッシの全盛期を見届けるべく、鑑賞したいと思います。

ポエトリー

少しTwitterで触れましたが、とにかく『母なる証明』が最近レンタルしたDVD作品の中ではトップクラスで好きで。携帯パカパカ・ウォンビン”も良かったんですけど、当方はどうも“おばちゃんが頑張る映画”に何故か弱いらしく、それを『シークレット・サンシャイン』で宗教を正面から描き切ったイ・チャンドンが監督するならば、そりゃー観るしかねーだろうって事です。

311

震災直後から被災地に入り撮影を敢行した事で、様々な物議を醸している問題作。その是非を問う意味でも、ぜひユーロスペースに足を運び、目撃しなければ、と。


尚、『戦火の馬』は予告編を観る限り、例によって当方の“地雷警報”が作動したので、しばし様子を見ます。

あとはサッカー日本代表の重要な試合が続きますので、これにも思う所があれば投稿するかもしれません。

2012/02/27

長文映画レビューシリーズ 『ペントハウス』



ペントハウス
ベン・スティラーとエディ・マーフィが初共演し、大富豪にすべてを奪われたビルの使用人たちがチームを組んで復讐する姿を描くアクションコメディ。監督は「ラッシュアワー」のブレット・ラトナー。
ーーー映画.comより抜粋


“コメディとしてもサスペンスとしても良く出来てる”との前触れを耳にし鑑賞。いわゆるチーム・クライム物と言って良いと思うのですが、あまり前情報を入れずに観た方が楽しめる作品ですね。とにかく、映画が始まった瞬間からは予想も出来ない所へ連れてってくれる、素敵な映画体験を味わえました。

ケイシー・アフレックが出てるって事を知らなくて、「あぁ、この役柄『オーシャンズ』シリーズ以来久々に観たなぁ」と思ってたら、映画自体も『オーシャンズ』っぽく転がって行きます。ただ、『オーシャンズ』と決定的に違うのは…


※以下、多少のネタバレが含まれます※


『オーシャンズ』シリーズが、プロの犯罪者集団が結託するクールな怪盗モノ(でも『12』はクソ)だとしたら、本作は素人が雁首を揃えた“ポンコツ野郎Aチーム”。足りない頭を必死に絞って、奪われた資産を盗み返す、弱者の一撃のお話なんです。このフックだけでちょっと楽しい。

主人公がそれぞれの腕を見込んでメンバーをスカウトをしに行くあたりも、実に『オーシャンズ』的ですが、その見込んだ腕が予想以上にポンコツで使えない。肝心の窃盗シークエンスも実にドタバタで、なかなか予定通りには進まない。これだけプランの脇が甘いのに、高所からのカメラワークも相まって、クライマックスはなんだかんだでゾワゾワと手に汗握る名シーンになってるのが巧い。悔しいけどハラハラしてしまいました。

ラストは序盤の伏線を綺麗に回収して、“主人公が少しだけリスクを負うが、他の皆は全員ハッピー!”という、正に『オーシャンズ11』的一発逆転どんでん返しで締め括ります。ここは単純に痛快!超気持ちいい!特に“ポンコツチーム”を横一列に並ばせて歩かせるシーンをしっかり入れてくるあたり、ベタだが憎めない!作り手はチーム物の肝を良く理解してますよね。

ただし冷静に考えて、その痛快なラストも「車の中にアレが入ってなかったら、そもそも車がアレじゃなかったら」何一つ成立してなかったんですよね。極めて行き当たりばったりのクセに、主人公がしたり顔で「チェックメイト」とかぬかしやがりますが「お前、出たとこ勝負をたまたま勝ったに過ぎないから!!」と突っ込みを入れたくもなります。車を「どうやってあの場所に上げたのか」も曖昧にして誤魔化された気もしますし。

それでも、これだけ楽しい要素を詰め込んでテンポ良く語り、最後は痛快なカタルシスを産み出して、エディ・マーフィーの顔芸とマシンガントークも久々に堪能できて、104分というコンパクトな尺に纏めてくれたら、OK!!!『キツツキと雨』の制作陣もこういう語り口を勉強して頂きたいものです。

<結論>
ツッコミどころは少なくないものの、ラストはキッチリ締め括って、“弱者の一撃”を痛快且つコンパクトに描いてくれた、チーム怪盗モノとしての佳作に出会えました。「必見!」とは言えないかもしれませんが、“時間が合ったら観ると楽しい映画”として最高でした。

2012/02/26

長文映画レビューシリーズ 『キツツキと雨』




「南極料理人」の沖田修一監督が、無骨な木こりと気の弱い映画監督の出会いから生まれるドラマを役所広司と小栗旬の初共演で描く。とあるのどかな山村に、ある日突然、ゾンビ映画の撮影隊がやってくる。ひょんなことから撮影を手伝うことになった60歳の木こりの克彦と、その気弱さゆえにスタッフをまとめられず狼狽する25歳の新人監督・幸一は、互いに影響を与えあい、次第に変化をもたらしていく。



予告編からはジワジワと「これは……危ないかも」と自分の中の地雷探知機が警鐘を鳴らしていたものの、近所の劇場が割引デーだったのと、ネット上ではなかなかの好評となっている作品だったので、「これが面白かったら南極料理人も観よう」と決めて鑑賞。結果、逆の意味で『南国料理人』も観なければならないな、と決意しました。まぁ何と言うかですね……

ファンタジーならファンタジーって先に言っておいて!

年輩の客層が多めだったとは言え、劇場ではあちこちで笑い声が起こっていて、久々に世評との著しい乖離を実感しました。こういう状態になると「なんか頭デッカチになっちゃって、大事な感性どっかに落として来ちゃったかな…」と、非常に悲しい気持ちになるんですね。
なので、必死に冷静になって、沖田修一監督の人となりや本作のインタビューなんかを調べて、幾らかフォローする気持ちも湧いては来ました。でも……やっぱりおかしいよこの映画!!


※以下、多少のネタバレが含まれます※


役所さん演じる克彦の不器用な優しさや、高良健吾との不器用だけど確かな親子愛を見せる序盤は、むしろ楽しく観る事が出来ました。ただ純粋に楽しめたのはせいぜい開始5分程度。

オープニング早々、「はい?」の“テンドン”から始まるわけですが、ここから既に「くどいなぁ……」と暗雲が立ち込める展開。とにかく全体を通してテンポが鈍重。無駄にたっぷりと“間”を取るのですが、その“間”に対して物語がちっとも進行しないので、単に苛々させられるばかり。そもそもこういう“間”って、演出の緩急があってこそ初めて機能するものじゃないですか。本作、ずーーーっと緩みぱなし。文字通り“間延び”しているだけ。

何しろ劇中劇であるゾンビ映画のクォリティが酷過ぎるでしょ。「人口が激減して、ゾンビとの共存を探る近未来の話」って説明しといて、ババァが竹槍で“死ねぇ~~~!”って特攻する作品ですよ。あのさ、何でこの企画通ったの?
「撮影されるゾンビ映画が、自主映画っぽいB級感があって良い」ってレビューも目にしましたが、いやいや、この規模は自主映画のそれを軽く凌駕してますよ。メイクさんだけで数人準備出来ていて、ちゃんとフィルムで撮ってて、即興で“レール”が用意出来るくらいの設備も整ってる。おまけに村人がこぞって黄色い声を上げるくらいの大物俳優(山崎努)らしき人も配されてる。
つまり監督自身が手掛けたこの脚本を、何かしらの理由があって誰かが評価して、そこそこの予算を掛けて映画化してるわけでしょ?その必然性が全っ然わからない。映画の規模と内容が全く伴ってないんです。


映画監督である幸一(小栗旬)の背景をちっとも描かないのも問題で、ただでさえ感情移入し辛いキャラになっている(靴下を履くシーンで聞こえる“幻聴”は最後まで回収しないので、もはやイっちゃってる奴にすら見える)のに、この幸一君は……

・何故かクソつまらない脚本が通って映画化され
・それまでの経歴も一切分からないのに何故か監督に抜擢され
・やっぱり身の丈に合わなくて逃げ出そうとするヘタレだけどクビにはならず
・ちょっと本を誉めてくれた田舎のオッサンにほだされ
・そのオッサンの言いなりに進行してたら、何故か周りの大人が誉めてくれる

……と言う、超絶的に恵まれた環境で監督に祀り上げられた男なわけです。作中で描かれる“成長”って言ったら、せいぜい「よーい…ハイ!!」と「カット!!」をまともに言えるようになっただけ。それなのに例の大物俳優は「また呼んでよ」って声を掛けたりする。なんで?あれだけお尻を痛めながら、グダグダとした進行でワンカット撮るのにも苦労したのに(またこのシーンがくどいことくどいこと)。
要するに、映画監督である幸一が終始周りから甘やかされっぱなしの作品なわけです。

沖田監督のインタビューを鑑賞後に観るとよく分かります。言いたくないけどこの作品は、前作『南国料理人』で必死になって一本撮り終えて、色んな気苦労があった中で作品は評価された、沖田監督自身を作中の幸一に投影させてる映画なんですよね。キャリアもコミュ力も無いけど、たまたま理解ある人に支えられて一皮剥けるって話。気持ちは分かる。分かるけど、それがやりたいんだったらもうちょっと劇中劇のクォリティ考えましょうよ。

<結論>
これを「B級感が逆に良い」とか「アンニュイで心地良い」とか「良い意味でキッチュ」とか「ゆるふわ~」とか「ほんわか~」とか、よく分からない言葉でを無理矢理評価する論旨(荻上直子作品の評なんかによく見られる)には、当方は一切同感する事が出来ません。

「僕の才能は、乱暴で心無い映画製作現場従事者には分からない!素朴で純な心を持つ田舎のオッチャンにこそ理解されるんだ!こんな僕が作る映画は、例え題材がクソでも評価されるんだ!!」と言いたいだけの、超生温いファンタジーとしてのみ、鑑賞に耐え得る作品でございました。


冒頭に書いたとおり、これはいよいよ本気で『南国料理人』を鑑賞しなければいけなくなりました。や、本当に評価が高い作品なので、『キツツキと雨』がたまたまイレギュラーだっただけ、と信じてレンタルしたいと思います。

2012/02/22

(いまさら)長文映画レビュー 『ディア・ドクター』




ディア・ドクター


「蛇イチゴ」「ゆれる」の西川美和監督が、笑福亭鶴瓶を主演に迎え、僻地医療を題材に描いたヒューマンドラマ。都会の医大を出た若い研修医・相馬が赴任してきた山間の僻村には、中年医師の伊野がいるのみ。高血圧、心臓蘇生、痴呆老人の話し相手まで一手に引きうける伊野は村人から大きな信頼を寄せられていたが、ある日、かづ子という独り暮らしの未亡人から頼まれた嘘を突き通すことにしたことから、伊野自身が抱えいたある秘密が明らかになっていく……。


『J・エドガー』を観た時に、「そういえば数年前にもこんなテイストの邦画あったな」と思い出したのが、この『ディア・ドクター』。2年以上前の作品ですが今更レンタルで鑑賞。環境は全く異なるものの、片やFBI、片や僻村で、それぞれ“神”となった男の抱える虚実。嘘の奥で守りたかった秘密のお話、という意味では『J・エドガー』と非常に類似点があったように思います。安易な結論に物語を着地させず、“答え”を観客に委ねて来る、という意味でも。


※以下、序盤で明らかにはなりますが、本作の最大の“嘘”の中味にも少し言及(ネタバレ)します※


一言で言えば、“嘘についてのお話”。
序盤に出て来る「僕、免許無いねん」というストレート過ぎる語りに代表されるように、わりとハッキリとセリフで問題提起をしてくるので、作り手側のメッセージをダイレクトに受け取る事が出来ます。
「資格とは?」
「医療とは?」
「人の幸せな最後とは?」

そして、「嘘とは?」

物語上で分かりやすい着地は一切させず、主人公がどういう動機でこの村にやって来たのかも、事実が発覚した後に村人達が主人公をどう受け止めたのかも、“嘘”に加担した人々の狙いとその後も、悪く言えば“投げっぱなし”。
特に余貴美子の役どころは、もう少し説明があっても良かったのでは、とは思いますが、嘘と真実の皮膜にある何かを、観客に考えてもらいたいという狙いは大成功しているのでは。

何よりエンドロールで流れる本作の主題歌、モアリズムの『笑う花』がばっちりハマってて、この物語の締めくくりとして最高でした。
他にも、さり気ない細部の演出がなかなか良くて、気付けばテレビで野球を観てる八千草薫さんが凄くチャーミングだし、ある待合室のシーンで、最初は見えないけど、時間が経つと……井川遥来てたーー!!という一種ホラー的な見せ方もとても楽しかった。『ゆれる』といい、この『ディア・ドクター』といい、脚本も自身で手掛ける西川監督は、相当デキる女性に間違いありません。

これも『J・エドガー』と共通する語り口として、作品全体が非常に淡白で、クライマックスと呼べる盛り上がりは最後までありません。特に終盤は事態への説明が意図的に排除されているので、先述したように余貴美子や香川照之の意思が曖昧なまま物語は幕を閉じてしまいます。劇映画として、もう少しこの辺は回収してくれた方が良いのでは……?とも思いました。
しかし“真相がわからない状態”である事そのものが、“嘘についての映画”の唯一の着地点なんですよね。日常に於いても、本当の意味で他人の真意を知る機会がどれだけあるでしょうか。

<結論>
全体的にあっさりとした作品ですが、観終わった後に誰かと“嘘”について語り合いたくなる良い映画でした。
但し本作の中で起こるように、一発で人間関係が崩壊し、後味の悪い空気だけが残る可能性もあるので、語り合う相手は慎重に選びましょう。

2012/02/20

長文映画レビューシリーズ 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』



「9・11文学の金字塔」と評されたジョナサン・サフラン・フォアによるベストセラー小説を、スティーブン・ダルドリー監督が映画化。9・11テロで最愛の父を亡くした少年オスカーは、クローゼットで1本の鍵を見つけ、父親が残したメッセージを探すためニューヨークの街へ飛び出していく。脚本は「フォレスト・ガンプ 一期一会」のエリック・ロス。オスカーの父親役にトム・ハンクス、母親役にサンドラ・ブロック。



「2カ月ちょっとでこんなに良い映画ばっかり観れていいのかなぁ?」となぜか申し訳ない気持ちに襲われるくらい、今年の名作ラッシュ感は半端無い。その中でも極めて“泣ける映画”として、原作小説既読層からプッシュされていた本作。当方はまだ原作を読めていませんが、無理やりにでも時間作って絶対に読みたいと思っています。

端的に今の感想を一言でまとめると…

どんだけ泣かすねん!!

そりゃ“9.11”を少年からの視点でこれだけ悲しくも美しく語られたら泣くよ!ズリーよ!
複数作られてきた“9.11映画”の中で、間違いなくダントツのクォリティを放つ傑作でしょう。日本人でこれだけ泣ける作りなんだから、米国人が観たら干からびちゃうんじゃないの?

ただ同時に、これ絶対原作小説の方が面白いと確信に近いレベルで感じました。原作の持つ“活字のカロリー”が、映画の尺に明らかに収まり切って無いのが分かります。映画は映画で素晴らしいのですが、こういう“主人公視点のモノローグで語るお話”は、絶対小説の方が入り込める筈です。

しかしこんなにもアメリカ賞レース向けの作品なのに、アカデミー作品賞は下馬評通り『ヒューゴの不思議な発明』が獲るんですかね?“9.11”から10年後に本作が映像化された意義は少なくないと思うのですが。そしてどう考えても、主演男優賞は文字通り“オスカー”役のトーマス・ホーン君にあげるべき!!


※以下、多少のネタバレが含まれます※


なにしろですね、この難しいオスカー役を見事なまでに演じ切ったトーマス君に大絶賛を贈りたいのです。中盤、“グランパ”に9.11のトラウマを一気に捲し立てるシーンと、終盤“ブラックさん”に“6件目の留守電メッセージ”を語るシーンの緩急、何ですかアレは。途中からオスカー君が画面で物憂げな表情してるだけで、もうそれだけで泣けてきちゃうんだから末恐ろしい役者が現れたな、と。ここは掛け値なしで称賛したい点。

トム・ハンクスが出てて、脚本がエリック・ロス…という事を意識しなくても、本作は“2000年代のフォレスト・ガンプ”として観ちゃいましたね。すこしだけ障害があり、でも限りなくピュアでジーニアスな主人公が走る。ガンプは最愛の人と息子に救われたけど、オスカーは母に救われながら、意図せず多くの“ブラックさん”(=NY市民)を救っている。この構図だけでも涙!。

メンターとしての“グランパ”の存在が非常に効果的に作用してましたし、終盤のサンドラ・ブロックの「Let it go,Let it go…」から始まる“ブラックさん巡りの旅の真実”といい、グランパに無理やり留守電聞かせる鬼畜の所業といい…もうね、泣くに決まってんだろそんなもん!!「もう…勘弁して下さい…」って涙腺が悲鳴を上げるレベルで、とにかく泣かせ所の容赦無いつるべ打ちなわけです。少なくとも、こんなにもタンバリンの音が悲しく聞こえる映画は無いのでは。そして「歩け歩け地獄ってのはこういう風に描くんだよ!!」と映画版ヒミズのスタッフに見せてやりたい気持ちになりました。“鍵”が直接的には“パパとの8秒間”を埋めるキーにはならないのも巧いなぁ。

唯一どうしてもイチャモンを付けたい点として、“グランパ”が非常に魅力的に描かれていただけに、最後までオスカーの成長と寄り添わせて欲しかった。これは尺の問題でしょうが、彼が失語してしまった原因等もしっかり回収してくれたらほぼ文句は無かったです。


<結論>
言ってしまえば「アメリカのアメリカによるアメリカの為の映画」で、9.11が本来持つ根の深さや問題は、J・エドガーよろしく“抹消”しています。ゆえに「まーたアメリカのアメリカ賛美か」と取る事も出来なくは無いとも思います。
でもあくまで本作は、「あるヘソ曲がりな少年がトラウマを乗り越え、意図せず周りを少しだけ幸福にしながら成長していく」というお話こそが本筋で、ここは本当に良く出来ていると思います。震災を経験したばかりの我々にも響く要素が数多くあるのでは。

そこまで深く考えなくても、単純に「泣きたい!!」と、映画にデトックスを求める方にも自信を持ってオススメ出来る良作。原作小説を読み込んで、さらに涙腺を虐め抜いてやろうと思います。

2012/02/18

(いまさら)長文映画レビュー 『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』



人気アクションシリーズ「X-MEN」のプリクエル(前章)。後のプロフェッサーXことチャールズ役に「つぐない」のジェームズ・マカボイ、マグニートーことエリック役に「イングロリアス・バスターズ」のマイケル・ファスベンダー。監督は「キック・アス」のマシュー・ボーン。

X-MENシリーズは、アメコミ原作もゲームも過去の映画作品も全く食指が伸びず、「何かツメの尖ったアイツが頑張るアレ」くらいの認識くらいしか持っておりませんでした。なのにわざわざ本作をレンタルで今更鑑賞した理由は以下の2点。

■マシュー・ボーン監督の前作『キック・アス』がとにかく最高だった!
■本作は“X-MEN童貞”向けの作品で、それくらいの方がむしろ楽しいらしい!

……特に後者は周りの映画好きがこぞって「リメイクとして大成功している!」と太鼓判を押してくれたので、マシュー・ボーンへの期待を確信とするべく、38度の熱を押して布団にくるまって観たのです。

結果、やはりコンディションの優れない時に、無理に芸術作品に触れるモノではありませんね。

……あれ?楽しくないぞ……?

と、終始お話に乗り切れないままエンドロールを迎えてしまいました。
ストーリーテリングやVFXでの演出のいずれにも琴線が反応せず、「この不感症状態は何が原因なのだ?」と己を問いただしながらの鑑賞を余儀無くされました。で、マイノリティとして迫害されたり対立してしまったりするミュータント達に、感情移入出来ない以前に「どうでもいい」とすら思って観ている自分に気付いたんですね。

以前から、いわゆる「超能力」を実写で可視化されると萎えてしまうタイプで、『バンシー』が口からボワワワーンと円状の超音波を出した時点で、急激に脳内が冷めていってしまいました。思えば同じアメコミ原作でも、「超能力者」ではなく「狂気に捉われた者」が敵役となる場合の多い『バットマン』シリーズはわりかし好みで、『ダークナイト』なんかは楽しんで観れたんですよね。で、『スパイダーマン』はやっぱりもう一つ乗れなかった。生身の人間と、その人間が起こす超常現象の画的な不釣り合いがどうしても気になってしまって、どんなに素晴らしいCGで構成されていたとしても「アニメでやればいいのに」と思ってしまうんですね。

キング牧師とマルコムXを想起させるチャールズとエリックの静かな対立なんかは、非常に印象的に描かれていましたし、最近だと『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』に見られたような、虚実の皮膜を感じさせてくれる“史実の裏側の真実”的キューバ危機の利用もベタではあるけど良かった。
特にあちこちで絶賛されている通り、ミュータント達のスカウトシーンとトレーニングシーンは、王道中の王道で単純にアガる!なんか『メジャーリーグ』の1作目あたりを思い出しましたね。作品全体としては、評判通り“童貞層”を惹き付けるには十分な程に魅力的に仕上がっている事は確かだと思います。

<結論>
原作のファンからも一定の評価を得ている様なので、やはり当方に“超常現象可視化の系譜”と折り合うスキルが欠落していた様で、何かの修行不足を痛感しました。何を鍛えれば克服出来るかも分かりませんが。
どなたか、この系譜の作品のオススメありましたらご教示下さい。

『スター・ウォーズ』があるじゃん!って言われそうですけど、アレは超常現象が可視化されるのって、皇帝の電撃くらいですよね?フォースって意外と目には映らないですもんね。

2012/02/17

(いまさら)長文映画レビュー 『アジョシ』



アジョシ

「母なる証明」のウォンビンと「冬の小鳥」で絶賛された子役キム・セロンが共演し、2010年韓国で630万人を動員したサスペンスアクション。過去のある事件をきっかけに、世間を避けるように孤独に暮らしていたテシク。隣家の少女ソミは母親が仕事で忙しく、テシクを「アジョシ(おじさん)」と呼び、たった1人の友だちとして慕っていた。そんなある日、麻薬密売に巻き込まれた母親とともにソミが犯罪組織に誘拐され、ソミを救うため組織を追うテシクは事件の背後に隠された真実を知る。



それほど韓国映画に明るくない当方は、どうせウォンビンの、ウォンビンによる、ウォンビンの為の映画でしかないんだろうと思って劇場での鑑賞を避けていました。しかし先日『母なる証明』を鑑賞し、巷で噂の“携帯パカパカ・ウォンビン”を観たら、今更ながらこの男への信頼度が一撃で神レベルに到達。こうなったら観るしかないだろ、って事で本作をサクっとレンタル。結果…


ウォンビン、かっこえええええええ


なんだこの瞳のキラキラ具合。そのキラキラが後半は逆に恐ろしく見える、感情の揺らぎもしっかり演じてくれる。アクションも文字通り体当たりで挑戦していて、肉体的な説得力もある。この男、只のイケメンではないぞ、と。本当に本当に素晴らしい役者だと遅まきながら認識を改めさせて頂きました。

イ・ジョンボム監督の手腕も相当なもので、まぁテンポが良くて120分があっという間。画の作りもウォンビンの格好良さを存分に引き出してくれるし、特に格闘シーンの迫力、ナイフアクションの新鮮さは、残虐シーンに弱い人でも(「血」さえ耐えられれば)間違い無く楽しめる。端役に至るまで、キャスティングとキャラの立ち具合も最高。シリアスなお話なのに笑わせ所も豊富。

それに加えて、ストーリーテリングが上質の極み。伏線を伏線と感じさせない見事な配置と、決して説明的でない人物の掘り下げ。あの敵役のベトナム人の描き方には心から絶賛。ラストは号泣ですよ。

デフォルメされ過ぎなキャラ(特に悪役の弟)が鼻についたり、ウォンビンのセリフがキザ過ぎる点もあり、100点満点!とは言い難いのですが、この映画が2010年の韓国での興行収入No,1っていう土壌が本当に羨ましくなります。

<結論>
確かにちょっと“ウェット過ぎる”という声があるのも分かります。特にラストはあまりに美談テイストが強いな、とは思いました。しかし、韓国映画と言えば救いの無い、鈍重バイオレンスばかり……というイメージが先行していた当方にとっては、このウェット過多なテイストすら心地良かったのです。

傑作!大傑作!ウォンビン最高!

2012/02/15

(いつも以上に気持ち悪い)長文映画レビューシリーズ 『ドラゴン・タトゥーの女』



ドラゴン・タトゥーの女

スティーグ・ラーソンの世界的ベストセラーを映画化したスウェーデン映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(2009)を、「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」のデビッド・フィンチャー監督がハリウッドリメイクしたミステリーサスペンス。経済ジャーナリストのミカエルは、資産家のヘンリック・バンゲルから40年前に起こった少女の失踪事件の真相追究を依頼される。ミカエルは、背中にドラゴンのタトゥをした天才ハッカーのリスベットとともに捜査を進めていく。主演はダニエル・クレイグと「ソーシャル・ネットワーク」のルーニー・マーラ。---映画.comより抜粋


先に鑑賞したい映画が山ほどあった中、この作品を優先して観た理由は一つ。「デビッド・フィンチャーだから」。『セブン』、『ファイトクラブ』は大ファンだし、『ソーシャルネットワーク』でも面目躍如を見せたこのデキる男を信頼して、プライオリティをすっ飛ばして観て来ました。いつも通り当方のスタンスを先述しておくと…

■スティーグ・ラーソンの原作小説三部作は全て未読
■スウェーデン版の映画化も全て未見
■屈指の“愛猫家”

…という、『AUTB』に続き完全な「童貞状態」であり、ネコを愛してやまない人間である事を踏まえた上で、以下お読み頂けましたら幸いです。

とにかく冒頭から宣言したい事。この作品は……

「ネコ映画」である!

この一言で集約してもいいくらい、もう誰が何と言おうと本作は「ネコ映画!」「ネコを愛でる為の作品なんだ!」と、当ブログで初めてフォントサイズを変えてまで高らかに宣言させて頂き、以下はいつも通りの駄文でお送り致します。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


今回は(一応)ミステリーという事で、いわゆる“謎解き”部は避けて語りたいと思います。と言うか、カッコつきで(一応)とした通り、ぶっちゃけこの映画、ミステリー部はどうでもいいとすら思えるくらい、主役二人の、とりわけ『ドラゴン・タトゥーの女』その人であるリスベット・サランデルの、キャラとしての魅力に尽きる映画です。この人を描きたいが為にコロンビアが権利買ったんじゃないの?

ミステリーの設定は、なんてこたぁないスウェーデン版の『犬神家』(ハつ墓村でもOK)です。これだけで日本人ならスッと物語に入っていけることうけあい。あとはフィンチャーの系譜で『セブン』の雰囲気も少し漂いますね。伏魔殿さながらの一族のドロドロ劇が、聖書になぞらえたような猟奇的な連続殺人事件に結び付く…という展開なのですが、お世辞にもミステリーとしての語り口は達者とは言えず、非常に分り辛い作りになっています。

これは作中で主人公に「どなたがどなただか混乱して…」と言わせてるくらいですから、敢えて入り組んだ作りにしているのでしょう。原作ファンなら恐らく問題無く飲み込めるのだろうし、未読組としては追って小説を読みたくなる効果もありました。ただ真犯人が実にショボい。シリアルキラーらしい存在感皆無。これはいただけなかった。

でも繰り返しますが、本作はキャラ映画(断言)なので、ミステリーとしてどうこうなんて能書きは必要無い(断言)!
なんせ、ミカエルとリスベットの二人の視点で物語が進行して、事件解決の為にこの二人の物語がクロスするまでにたっぷり1時間以上を掛け、徹底して二人のキャラを掘り下げるんです。
特にリスベットは、屈辱でまみれてもタダでは起きず、大人しく服従したかの様に見せてからの……全力の反撃!隠していた爪の鋭さと恐ろしさたるや、まさにネコ!!
ミカエルも社会的に崖っぷちに陥り、伏魔殿での謎解きを迫られるさなか、ついついネコを匿ってしまう。リスベットと初めて接触するシーンも、ネコを匿った時と同様「とりあえずエサをやる」。根は優しい、憎めない男である象徴として、ネコが効果的に作用しているわけです。

そして、そんな二人がタッグを組み、いざ真犯人を突き止めん!と意思を疎通させ結託する、まさにキッカケとなるのが……前述した通り、ショボいシリアルキラーの手に墜ちた“ネコ”。このシーンを観た瞬間に本作の真犯人は、全世界50億人の愛猫家を完全に敵に回しましたよね。「こんなヤツぁ生かしちゃおけねぇ!!」と。「やっちまえリスベット!!」と。
そもそもこの真犯人、劇中に限って言えば、実は自分の思い通りに出来たのはこのネコくらいなんですよ。実にショボい。そしてリスベットという最強のネコに返り討ちに遭う。こんなショボいラスボスは、あんな最後じゃヌル過ぎる!とも思いましたが、まぁリスベットの手が直接汚れなかった事で良しとしてやります。

いつもに増して非常に気持ちの悪いテンションで綴っておりますが、キャラを抜きにして、今作でもフィンチャーの手腕は流石。
カレンOの歌う『移民の歌』に乗せたオープニングの映像がソリッドでメチャクチャ格好良いし、観てるだけで凍えてくる、色調を抑えた冷たい画の作りも良い。リスベットのジリジリとした憤怒を観客とリンクさせてくれる音の使い方や、クールの一言に尽きる“エスカレーターアクション”も最高。「少しやり過ぎなのでは……」と言いたくなるリスベットへの凌辱シーンも、その後のリベンジ劇で最高のカタルシスを生成するのに一役買ってくれましたね。「世のアホな男どもなど、全てリスベット様の手で●●●●されてしまえばいい!!」ってなもんですよ。

「リスベットがミカエルに惹かれる理由が分り辛い。描写不足」という声もあるようですが、良いんですよそれで。だってネコなんだもん。気まぐれなんだもん。惹かれたというより“懐いた”のが正解なんですよ。脳出血で倒れちゃった弁護士のおじいさんが、それまでのリスベットの宿主だったんですよ。本作のラストシーンが実に顕著で、リスベット自身、「ミカエルへの感情の正体が何か」が分かっていないんじゃないですかね。
ミカエルもミカエルで、思わずノラを匿っちゃう男としてちゃんと描いてますから、突然“ネコ”が胸元に飛び込んで来たら、そりゃー愛するのが人情ってモンでしょうよ!ネコを通して見ると、優柔不断なミカエルも途端に愛らしいキャラに見えてくるから不思議ですよね!

<結論>
原作やスウェーデン版の映画ファンが観た評価は、どうも“もう一つ”感があるようです。ミステリーとしての脇の甘さも確実にあるとは思います。しかしとにかくリスベットの佇まい、フォルムが素晴し過ぎて、ここだけは非の打ち所がないのでは。『ソーシャルネットワーク』で、凡庸な女子大生を演じていたルーニー・マーラと同一人物とはとても思えない。オスカーノミネートも納得の一言。

個人的には、早く続きが観たい!小説もスウェーデン版も全部観たい!3部作全部追いかけたい!っていうか、この凸凹コンビの活躍がもっともっと見たい!!!と思わせてくれた名作でした。ネコって本当に素晴らしいですよね。

2012/02/12

長文映画レビューシリーズ 『はやぶさ 遥かなる帰還』


はやぶさ 遥かなる帰還

2010年6月13日、7年間60億キロの宇宙航海を経て小惑星「イトカワ」の微粒子を地球に持ち帰った小惑星探査機「はやぶさ」。世界初となるその偉業を支えた人々のドラマを描く。主演の渡辺謙がプロジェクトマネージャーの山口駿一郎に扮し、「犯人に告ぐ」「星守る犬」の瀧本智行監督がメガホンをとる。---映画.comより抜粋


"はやぶさクロニクル"映画化の、全天周(プラネタリウム)版、堤幸彦監督版に続く第三作。過去二作については、以前少しだけ触れました
当方のスタンスは、「はやぶさにまつわるストーリー最高!それだけで見所盛り沢山なのだから、映画化は無理に脚色し過ぎない方が良い!」と言う、ちょっと気持ち悪いレベルの「はやぶさファン」である事は先に表明しておきます。

この『遥かなる帰還』は、ポスター等を見ても分かる通り、明らかに20代後半~40代のオトナ世代をターゲットに創られています。若年層は、イケメンを主役に起用し画も飛び出てくれる『おかえり、はやぶさ』の方が楽しめるんでしょうし、もっとTV的な、言ってしまえば″ライト″な感動話が良ければ堤幸彦版を観ればいい。そうか、ちゃんと住み分けがされていたんだな、そもそも狙いが違うんだな、そう考えると竹内結子も報われるな、と今になって思ったりしてます。

そして本作のターゲットのド中心である当方は、男達が淡々と苦難に立ち向かい、フィクショナルな人間ドラマは極力抑えられたこの作品に素直に共感出来たし、これくらいのトーンが「はやぶさ」を描くには丁度良いのではないか、と考えます。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


「はやぶさ」の肝とも言える、いわゆる「はやぶさ擬人化作戦」を今作は完全にスルー。あらゆるトラブルに立ち向かうプロジェクトチームの姿をじっくりと描き、それを見守る立場の"傍観者"が主にストーリーを紡ぐ。「新聞社の宇宙担当」という"傍観者"としてこの上なく分かり易い位置に夏川結衣を配し、家族の背景を掘り下げて加味した点、安易に「はやぶさ」を擬人化せず、語り部をちゃんと用意した点に、まず「それ正解!」と言いたい。彼女の目線で物語を追う事が出来るし、その感動的なストーリーを自分の実人生にフィードバックする、最も観客に近い立場の人物、即ち「はやぶさにヤラレちゃう人」の体現者として機能してくれたから。堤幸彦版で、"傍観者"と"物語の語り部"と"はやぶさ擬人化作戦"の全てを竹内結子に担わせてしまって、そのどこにも焦点が合わず、作品全体も中途半端になってしまったのとは実に対照的です。

プロジェクトチームも徹底して身近な存在として描くんですよね。研究所はボロボロでガムテープで床を修繕してたりする。ロケットを打ち上げれば振動で埃がコーヒーに落ちる。ボールペンをカチカチさせる癖のあるリーダーが居て、貧乏ゆすりが止まらない人も居て、商品として成功を収めたい企業のアイデンティティを貫く人も居る。そしてパーツの試作品は小さな小さな町工場で作られている。要するに「俺たち普通の日本人の小さな技術の結晶が、この奇跡を生み出したんだ!」という感動に集約させる訳です。これは「はやぶさ」の持つカタルシスのとても大事な要素だし、劇映画として最も共感を生み出せる、唯一と言っていい"勝因"だと考えますがいかがでしょうか。

逆に、そうした「普通の日本人」を序盤で長々と描写していくので、ここが映画的にヒマだなぁ、もっと大々的なコトが起こらないかなぁと退屈を覚えてしまう危険も秘めてると思います。しかしながら、部下の「NO」を悉く「YES」に変えていく、変える工夫を凝らす渡辺謙に「仕事ってそういう事だよな!」と思いっきり感情移入してしまった当方は、終始楽しめました。
中でも白眉は"はやぶさのラストショット"の描き方。単に1枚の写真だけで感動を煽るのでは無く、何枚も真っ黒な失敗画像を見せておいてからの…!という演出に、今作のテイストと醍醐味が集約されていました。ここは本当に素晴らしいシーン。

但し残念だった点も少なくは無くて、特に吉岡秀隆の、あの独特の粘度の高い演技は、正直ちょっとクドかったです。「商品云々も分かるけど、そこまで激昂する事か?可能性が有るなら、いち早くはやぶさを帰還させる事こそが最優先じゃね?」と。映画の尺から見ても、イオンエンジンが復活するか否かがクライマックスに当たるので、そこでクドクド我儘を垂れられるとイラっとしてしまうんですね。羅列される難解な専門用語の応酬にも特に解説はしてくれないので、全く「はやぶさ」に興味が無い層の鑑賞には耐えられないのも難点。ここは堤監督版を見習っても良かったのでは。

その他にも色々言いたい事はあるのですが、フィクショナルな要素は出来るだけ排し、エンドロールの最後の最後まで日本の宇宙開拓史への最大限のリスペクトを徹底した制作陣に拍手を贈りたくなる、良い映画だったのではないでしょうか。贅沢を言えば「はやぶさが見つかるパーセンテージ」のトリックとか「こんな事もあろうかと!」的盛り上げとか、面白くなる要素をもっと活かして欲しかったな、とも思います。しかしそれらを全て映画で描き切るには、「はやぶさ」には魅力が有り過ぎる、という事だとも思うのです。
"はやぶさクロニクル"未見の方は、是非とも全天周版と併せてご覧になってみて下さい!損は無いはず!!


あらゆる危機を様々な人々の活躍で乗り越え、最後は身を挺して地球にメッセージを届けた、"惑星探査機界のブルース・ウィリス"(当方が勝手に言ってるだけです)こと「はやぶさ」のアルマゲドンは、3月10日公開の『おかえり、はやぶさ』まで続きます。
"ボロをまとったマリリン・モンロー"の映画的評価は何処に着地するのか、楽しみ楽しみ。

2012/02/11

今後の更新予定

多忙を極めながらも映画館にだけは足繁く通っております。映画レビューが予想以上にPVを稼いでしまって(主にAKBドキュメンタリー)ビビっております。

今後の映画レビューは以下の作品を予定しております。

はやぶさ 遥かなる帰還
当ブログの2011年シネマランキングで執拗に取り上げた「はやぶさ」シリーズ。この渡辺謙バージョンが本命と捉え、本日鑑賞致します。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い
ポスターのビジュアルワークの素晴らしさ、そして何と言ってもタイトルのインパクトで、いわゆる″ジャケ鑑″を決めた作品。思い切った邦題つけるなぁと思ってたら、原題も『Extremely Loud and Incredibly Close』なのね。監督がスティーブン・ダルドリー、脚本がエリック・ロスという素晴らしいコンビなので、ハズレなしと見て期待しております。

ピアノマニア
新宿シネマートで予告編を観た時に、これは観たい!と胸を膨らませたドキュメンタリー。単館でスケジュール的に厳しいのですが、何としても見届けたいです。


非常に残念な事に雪山に行く時間が作れそうに無く、今シーズンはスノボ童貞で終える可能性が高い事が物凄く悔やまれます。よって、スノボの話題は当分無いでしょう…。
Jリーグが開幕したら、サッカー関連の話題もちょくちょく更新すると思います。とりあえず先日の五輪予選のシリア戦後は、ここに怒りの更新をブチまけてやろうかとも考えましたが、言いたい事は結局、

「関塚監督はお辞め頂いた方が良い」
「山村はCB要員として、中盤には扇原、或いは柴崎岳を中心に据えるべき」

この2点に集約される事に気づきました。どうやら協会は関塚監督を今からどうこうする気は無さそうですので、事態が好転する事を祈るのみです。


では、はやぶさ渡辺謙バージョンを観て来ます。

2012/02/07

長文映画レビューシリーズ 『荒川 アンダー ザ ブリッジ THE MOVIE』



荒川 アンダー ザ ブリッジ THE MOVIE

2度にわたりTVアニメーション化もされた中村光の人気コミックを、林遣人と桐谷美玲の主演で実写化。絶対に他人に借りを作らないことを信条とする大財閥の御曹司リクは、川で溺れかけたところを自称“金星人”のホームレス少女ニノに助けられる。リクは命を救われた借りを返すため、ニノの要求に応えて個性的な住人たちに囲まれながら荒川河川敷で暮らし始めるが……。2011年夏からドラマが放送され、続けて12年春に映画が劇場公開される。 ---映画.comより抜粋


予告編での余りのインパクト(主に山田孝之)から、中村光作品の一切を未読、アニメ・TVドラマ版も未見という完全なるAUTB童貞状態で鑑賞。ギョッとしてしまうようなビジュアルを初めとした設定を前に、「一体どんな話なんだろう?」というワクワクを持続させつつ、盛大に地雷を踏む覚悟も持って劇場へ向かいました。結果、この「童貞状態」は本作を楽しむのに奏功したと言えます。少なくとも、ドラマ版と並行して撮影が行われた上、序盤の殆どはドラマ版の総集編に等しい作りのようなので、TVドラマを観ていたら「退屈」と思わずには居られなかった筈です。

一言で表現すれば…

「言いたい事は山ほどあるが…憎めない!!」といった印象。

予告編初見時に「お、クロマニヨンズが主題歌!?…あ、ごめん50回転ズだった」と一人で赤っ恥をかいたのは完全に余談です。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


巻き込まれ型ドタバタ人(?)情劇。その"ドタバタ"に観客までメタ的に巻き込んでやろうというハチャメチャな作品。このハチャメチャを一緒に楽しめねぇ奴は…


「ROCKじゃねぇ!」

金星人がどうとか河童の正体とか星がどうとか、そんな事をグダグダ言ってる奴は…

「そんな"ボーダーライン"は飛び越えて楽しめ!」


と開始からたっぷり5分を掛けて、観客に挑戦状を突きつけてきます。これを、キャラの掘り下げが浅く、全体に漂うチープなB級映画感のエクスキューズと捉えてしまったら、間違い無くこの作品には乗れないでしょう。当方は「童貞状態」が功を奏して「よっしゃ来い!」と、作中の河童さながらに、がっぷり四つで組み合う事が出来ました。

だからと言って、傑作!とか感動!とか誉めちぎる気にはさらさらなれないのも事実。明らかに登場人物が多過ぎて、一部キャラは殆どモブ化してしまっているし(この辺はTVドラマ版で補完されているようですが)、肝心の主人公の成長は非常に性急に描かれてしまっていて、いつの間にか河川敷の面々と勝手に打ち解け、いつの間にか「お金では買えないモノ」とやらを見つけたらしく、勝手に父親と対立する。しかも"ダラダラした立ち話で戦う"という驚愕のクライマックスを経て、勝手に勝利を手にする。リクはとにかく感情移入し辛いキャラになってしまっていて残念。

でも、これは後から読了して分かった事ですが、そもそも原作は連載での少ないページ数を笑いで敷き詰めた、キャラ頼みのギャグ漫画に他ならず、登場キャラの誰もが成長しない、サザエさん型のお話なんですよね。そんな原作が持つ、笑いの中のほんの僅かなペーソス感を必死に切り取って薄く伸ばしたら、こんな感じのお話になるだろうなぁと思うと、妙に合点がいってしましました。

そんな中でもキラリと光るキャラ付けが出来ていたのが、ヒロインである二ノ。原作よりキュートさを増していて感情の機微が見えるし、金星語の仕掛けなんかもなかなか秀逸。桐谷美玲の達者とは言い難い演技が逆にハマっていて素晴らしかったです。特に「こくごノート」に記された「わざとまけてくれた」には…!不覚にもホロリとさせられてしまいました。

その他にも「答えは風に吹かれてもいるが、水の中にあったりもする」的なセリフ遊びも良かったし、バーガー屋での"小栗旬一派"のシーンは不気味で惹き付けられたし、ラストでオープニングの"水中シーン"の謎を巧みに見せるあたりも…やっぱり憎めない!

それだけにクライマックスの描写のチープさは目に余るし、ドラマ版の再編集でしかない序盤はもう少し工夫を凝らせなかったものか。やはり「童貞」で本作に出会えたのは大きな幸運だったのでしょう。
様々な消化不良や説明不足でノリ切れない場合は、「そんなのROCKじゃねぇ!」と"ボーダーライン"の向こう側へ、自分を無理矢理にでも飛翔させられるかどうか。個人的には、「最前で暴れる程じゃないけど、このバンドは憎めないな」といった感じで、アマチュアバンドを小さいライブハウスで見守るようなノリで楽しむ事はできました。


最後にこれまた余談ですが、わざわざメッセージを活字で可視化してまで訴えかける手法は『モテキ』なんかでも多用されていて、最近のTV作品や邦画のポップ手法として流行ってるんですかね。

2012/01/29

長文映画レビューシリーズ 『J・エドガー』


J・エドガー


「インセプション」のレオナルド・ディカプリオが、FBI初代長官ジョン・エドガー・フーバーに扮し、創設から50年もの間、そのトップに君臨し続けた権力者の隠された生涯を描く。監督は「ヒア アフター」のクリント・イーストウッド。共演は「フェア・ゲーム」のナオミ・ワッツ、「007/慰めの報酬」のジュディ・デンチ。---goo映画より抜粋

御年81歳にして、年1本のペースで映画を撮り続けるイーストウッドの最新作。リビング・レジェンドにして「アメリカ映画の体現者」が、今作はディカプリオとタッグを組んで、半世紀に渡り「アメリカの権力の中枢」として君臨した男を描く。となれば、観ない訳にはいかない。

『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』のスマートな語り口は大好きだけど、『インビクタス』まで行くとスマート過ぎて手に余るというか「あっさり薄味は胃に優しいですけど、もうちょっとスパイス効かせてくれても良いんじゃないですかね?」といった感想を覚えたのが当方のスタンスです。徹底してメッセージ性の強い作品を生みながら、物語の真の結末や未来は観客に委ねる。映画のラストと自分の実人生が地続きである事を感じさせてくれるような、「語り部」としての魅力溢れる監督であり俳優であると認識しております。

さて、ザッとレビューを拾ってみた感じだと、「ラストがあやふや!」とか「エドガー只の悪人じゃん!」といった否定的な意見も多い様子。そんな感想を抱かれるのも致し方なくて、やはり作中で明確な「答え」は提示されていません。情報量が過大で、いまいち乗れないのも分かるんです。ただ、あらゆる側面からJ・エドガー・フーバーという人物を映し出し、一筋縄では行かない解釈を投げかけてくる事は確か。それこそが本作の魅力であるし、FBI長官として君臨し続けた男の人生を、一筋縄で描ける訳が無いよな、と。どうやらイーストウッド自身も、インタビューでそんなような事を語っているようです。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


今作もやはり物語の進行がスマート。年老いたエドガーが公式の回顧録を残すべく、記録員に語りかける形でストーリーを進めて行きます。50年分の歴史を振り返る訳ですから、必然的にセリフでの状況説明が多く、その情報量にギリギリ置いて行かれそうになりますが、序盤は細かにエドガーの「性質」が散りばめられていました。 平たく言えばマザコンで、潔癖で、"スピード"と呼ばれるエピソードに代表されるように、実は巨大なコンプレックスを抱えている(作中のディカプリオは本当に早口)。そこから生まれる極度なまでの他者不信と自己顕示欲。
これらの要素をハンカチや、苦笑いする姪っ子などのサラっとした配置によってスマートに表現する。巧いなぁ。『英国王のスピーチ』を連想するようなシーンもあり、言動は利己的・排他的そのものでありながら、当方はどんどんエドガーを憎めなくなっていきました。

チャールズ・リンドバーグの愛児誘拐事件から物語は本筋に突入し、エドガーも本格的な権力を身に纏って行きます。しかしその権力の誇示と反比例するかの様に、拳銃を手にしても発砲出来ない弱々しい姿、母にすら己の本質を拒絶される姿も並行して描き、キャラとしての掘り下げが深淵まで到達したところで、物語もクライマックスへ。
鏡に向かって「強くなれ、エドガー」と己に語りかけ、ネックレスを引き千切るシーンは、そこまでの描写の積み重ねにより、目頭を押さえざるを得ませんでした。

ラストでは新大統領の就任パレードから面会(チラっとワシントンの肖像画に目をやるエドガー、可愛い)に至るまでの件で、序盤との見事な対比を生みだしていますし、物語全体を円環構造で締め括る。やっぱりスマート!
「圧力」で全てを手にしてきた男が、「絶対に圧力に屈しない」と断言する"異性"に救われるシーン…最高じゃないですか?ずっと「Miss Gandy」と呼び続けた秘書(しかも、女性不信のキッカケとなったような女)を、「Helen」と呼ぶこのシーンにこそ、映画的カタルシスが溢れていたように思います。

細かなディテールも目を見張るものがあって、特にあらゆるシーンで鳴り響いている「電話」を、初めて画面上で遂に取った、その報せは…?なんて気の利いた演出をするか!と。これが老練の業というヤツでしょうか。白眉!
名作からの台詞を引用する等、要所でイーストウッドの「映画愛」を見て取る事が出来ますし、気付けばタバコ吸ってたりとか、本で椅子を高くしてみたりとか、女性の前ではどもりまっくたりとか、笑わせ所もふんだんに用意されていています。極めつけは『ソーシャル・ネットワーク』でウィンクルボス兄弟を見事に演じ切ったアーミー・ハマーとの"ウホッ"な展開。まぁ面構えから絶妙でこの役にピッタリですし、「I want you...」なんて言われてしまった日には噴き出しそうになりました(全力で誉めてます)。アーミー・ハマー、最高です。

"パブリック・エネミー"を作りだし、圧力でそれを抑えつけ、回顧録には自分に都合の良い記録しか残さないどころか、都合の悪い"何か"は脳内から抹消すらしている。エドガーは、まさしく「Official and Confidential」そのもの。そして、公私を共にした伴侶に"何か"を指摘される事で、「アメリカの権力の中枢」の物語は遂に幕を閉じる…。
繰り返しますが、決してエドガーを善悪どちらかに振り分ける事はしていません。その判断は今作も、映画から地続きの現代を生きる我々に投げかけられます。第一線で作品を創出し続ける「アメリカ映画の体現者」だからこそ説得力を帯びる、上質のストーリーテリングだったのではないでしょうか。

ポールが徐々に公開館を増やしているようですが、重厚なドラマを楽しみたいなら、『J・エドガー』も捨てがたい!楽しかった!!

2012/01/28

(いつも以上に)長文映画レビューシリーズ 『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on』


DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら夢を見る


女性アイドルグループ・AKB48に密着したドキュメンタリー第2弾。シングルCDではミリオンセラーを連発し、コンサートは3日間で9万人を動員するなど、彼女たちのすべてが変わった激動の2011年を、前作をしのぐ膨大な収録テープと独占インタビューでつむいでいく。監督は、「コネコノキモチ」の高橋栄樹。---goo映画より抜粋


いざ劇場版ドキュメンタリー第2弾の公開!というまさにその日に、AKB自体は古参メンバーの解雇劇が勃発。特に平嶋夏海の脱退は、『SLAM DUNK』で言えば木暮が湘北高校を退学するに等しく、グループ史上最悪の1日を展開していた模様。当方はそんな展開はつゆ知らず、某紙編集者M2さんと一緒に舞台挨拶を兼ねた上映を2回鑑賞して参りました。

当ブログでも以前少し触れたように、1年前に公開された前作のドキュメント映画は、殆どドキュメントの体を成していない、只のインタビュー集でしかなく、さほど鑑賞の価値は無いと評価しました。故に、今作も当たり障りの無いPV的作品に着地するのだろうと予想しておりました。実際、監督にはAKBのPV撮影監督でお馴染みの高橋栄樹氏でしたし。

…しかし、結論から言って本作は…

ドキュメンタリーとして、よく出来てる!!

…と言って差し支え無いと思っています。これはAKBへのパーソナルな思い入れ等は一切度外視しての評価。可能な限り客観性を持って出来事を切り取り、観客に伝えようという、作り手の「頑張り」を確かに感じ取る事が出来ました(あくまでカッコ付きの「頑張り」ではありますが)。それも、前作のような既存のファンへのサービス映像集ではなく、「外」の観客へ伝えよう、観てもらおうという意志が明らかに込められています。この「外」へのベクトルが最大限に評価したい点。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


「総選挙やじゃんけん大会でのドラマ」
「過酷な夏のライブでのドタバタ過ぎる舞台裏」
「新チーム内の不祥事による葛藤」
そして、「震災」

2011年のAKBを取り巻いた数々の出来事を、「震災」との向き合いを柱にし、時系列順にメンバーのインタビューを挟みながら「そんなトコまでカメラ回したるなよ…」と言いたくなるレベルでメンバーに密着して記録。4部構成でこの1年を語ります。
ハッキリ言って、上記のような出来事は「震災」を除けば所詮マッチポンプでしかなく、幾らでも冷めた目で観る事は出来ます。おまけに、唯一の想定外であり同時に最大のテーマであった「震災」との向き合いにも、岩田華怜という仙台出身の研究生を象徴的に取りあげ、陸前高田の「一本松」へ、ある種フィクショナルに物語的な集束を作り出してしまうので、"これはドキュメンタリーですらない"とシビアに評価されても仕方無い作品でしょう。

それでも本作は、たとえAKBに興味の無い層でも一見の価値がある、引力を有した作品である事は間違いないと考えます。高橋監督は、そういった層の鑑賞に耐えられる作りにすると同時に、熱心なファンにも満足して貰える作りにしようと、相当腐心したのでは。とにかく観客を飽きさせないようにしよう、興味を持続してもらおうという「頑張り」が細部に見受けられました。
最もネームバリューのあるトピック「総選挙」の描き方が顕著。単純に前田敦子大島優子の関係性を切り取って、これをクライマックスとするのではなく、二人の感動的なシーンの後に、指原莉乃北原里英をコミカルに描く事で見事に緩急を付けてくれます。
本編を通して描写される被災地訪問の映像も、前田敦子のソロコンサートの音源をバックに纏める巧みさで、非常に印象的なシーンになっていますし、音楽の使い方は流石PV監督といったところで実に秀逸。北原の「How old are you?」だけはピチっとBGMを止めるなど、まぁ気配りが行き届いています。
ハイライトである西武ドームコンサートの舞台裏は「スタッフちゃんと段取りしとけよ…」と呆れ顔になりつつ、メンバー曰く"ホラー映画"さながらの様相を呈していて、これだけでも初見層にはかなりの迫力があるでしょう。"影アナ"で必死に盛り上げようとしている大島らチームKメンバーと、たった一人で、壁に向かって静かに心を整えようとしている悲壮な前田との対比などは、この事態を知っているファンに対しても、新鮮な切り口になっていたのではないでしょうか。
新チーム内のトラブルの件にしても、まずチーム結成のいきさつをちゃんと説明し、予め大場美奈の呑気な姿を見せておいて…という落差を、明らかに意識して作っていましたね。これも"親切な作り"だなぁと。監督、「頑張った」なぁと思わずにはいられないシーンでした。

被災地シーンは同じカットが使い回されていたり、わざわざ大場を一本松の下に立たせて物憂げな表情をさせたり、岩田に誰宛だか分からない、作り手が用意したとしか思えないような手紙を朗読させる等、ラスト付近は急にケレン味が出てしまっているのが非常に残念。このラスト近辺の作りだけで、あらゆる事柄をマッチポンプで感動的な美談に仕立て上げて、AKBという存在を全肯定しているだけに見えてしまう部分は否定できません。既定路線のレールが敷かれた上で、"身内の監督"として出来ることの限界も垣間見た気がします。

それでも、焦点の定まらない目でフラフラとチームAの円陣に加わる前田に、言葉にならない感情を抱いてしまうし、篠田麻里子の胸で号泣する大島のシーンに、会場のBGM『ここにいたこと』が奇跡的に聴こえてくるなど、ファンにとっては前作を優に凌駕する垂涎モノの映像集である事は疑う余地がありません。同時に『AKBの2011年』のしっかりとした振り返りと、『AKBってこんなグループ』という端的な説明をキッチリ両立させています。


本人達の不祥事も、大人達の不手際も、そして震災すらも飲み込んで、良くも悪くもエンタメ化してしまう、恐るべき現代のモンスターコンテンツを目撃するのに、こんなに適した作品はありません。是非劇場で観るべき!

今作の物語的集約点である、陸前高田の一本松は、皮肉にも保護の断念が決定し、枯れていくのを見守るしかない状況だそうです。
愛されるべき初期メンバーが自らの不手際で退場してしまったAKB48の道行を想いつつ、例に漏れずだらだらと駄文を綴ってしまった所存でございます。
ちなみに僕は、不覚にも島田晴香に泣かされてしまいました。

2012/01/17

(いつも以上に)長文映画レビューシリーズ 『ヒミズ』



ヒミズ


「冷たい熱帯魚」の園子温監督が漫画家・古谷実(『行け!稲中卓球部』)の問題作を映画化。家庭環境に恵まれない少年と愛に飢えた少女、2人の中学生の青春を切れ味鋭い独自のタッチで描く。主演の染谷将太(「東京公園」)と二階堂ふみ(「指輪をはめたい」)は、本作でヴェネチア国際映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞。

この映画への期待は別エントリーにてだらだらと綴りました。
スタンスとしては「古谷実作品で『ヒミズ』が一番好き!」「ここ数年の邦画では『愛のむきだし』が一番好き!」「だったら観るしかないでしょ!」と言ったところです。
それ故に、東日本大震災を受けて、大幅にプロットを書き変えたと聞いた時には、幾許かの不安が過ったのも事実。一度完全に原作を切り離して、1本の新作映画を観る心構えで2回鑑賞して参りました。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


ざっとさらった周囲の評判を乱暴に纏めると…

・原作既読者は、ちょっと不満!
・未読者は、言いたい事はあるけど概ね好評!
・園子温ファン的には、賛否両論!
といった感じのようです。
園作品恒例の"殴り書き"も無く、被災地を横スクロールで映し出すタイトルバックから、過去のフィルモグラフィーと比較しても異質な肌触りで滑り出しますからね。

胃がキリキリ震える重低音、本当に"痛い"殴打音などを含め、音の使い方は流石。アンチ・ROOKIESとも取れるような先生の描き方や、やたらチンポジを直すでんでん、「脱原発」ドロップキック等、笑わせ所も多い。路上ライブシーンでの、ギターの絶妙な下手さ加減と、使ってるギターが某安価ブランドっていうのもマッチしていて最高。そして何より、役者陣の熱演(特に染谷将太)を引き出した点は評価されるべきでしょう。「カップルのデートの仕上げにいかがですか!?」は、『恋の罪』の「美味しいですよ!いかがですか!?」を思い出してニヤリとしてしまいました。
住田が一線を越えるシーン、クレーンを使った長回しは画的に素晴らしかったですね。ゾクっとしました。この撮り方が今作のハイライトだった。

…さて、先に良い点を列挙しましたが、この映画、原作モノである事を差し引いても、やはり 失敗 していると言わざるを得ません。

ヴィヨンの詩の朗読から始まるオープニングから、基本的に茶沢さん視点で物語が動いて行く…のかと思いきやそんな事もなく、"絞首台"の扱いに顕著なように、キャラとしての掘り下げが中途半端で投げっぱなし。住田は住田で、「普通、最高!!」と思ってる奴が、それを授業中に教室で叫ぶか?という謎っぷりを存分に見せつけ、傘を貸してくれた茶沢さんが土手を転落してもヘラヘラと見捨てようとするわ、一線を越えてからは『ドラゴンヘッド』並みに狂気の沙汰で街を徘徊するわ(普通に捕まるでしょ)…。もう全く感情移入が出来ないんですね。

何より問題なのは、懸念した通り「震災」の物語への組み込み方が無理矢理で粗暴と言わざるを得ないこと。
類推するに、かなり被災地の只中での物語に見えるが、このボート屋、船流されずに済んだの?近くに納屋らしきものが流されて来ているのに、この土手は無事だったの?流された納屋を見ながら感傷に浸って居るのに、家失ったからってそこで生活しようとする?って言うか被災直後(5月と物語上で言わせてしまっている)川でボート乗ろうとする奴居る?仮にも震災前に社長をやってた人間が、ちょっと棲家を分け与えてくれたからって、中学生をさん付けまでして敬う?只のクソ生意気なガキに「これからの日本を託す男なんです!」なんてどうやったら思えるの?吹越&神楽坂夫婦の背景どうなってんの?「帰って来なくていいよー」って何さ?園映画オールスターにしたいだけじゃないの?などなど…まぁツッコミどころは枚挙に暇がありません。
今、震災を描くんだ!という志が、お話を纏めきれなかったエクスキューズにしか聞こえなくなってしまうほど、描き方が浅薄としか言いようがない。震災を題材にするならオリジナルの別作品にして、じっくり練り上げるべきだったのではないでしょうか。


※以下、さらにネタバレが入ります※


そして「失敗」と断言してしまうほど個人的評価を著しく低下させたのは、やはりラストの演出です。
被災地の映像をバックに「頑張れ!」というメッセージを届けたいなら、さも住田が死んだように見える、ノイズとしか言いようの無い演出は絶対にすべきじゃない。最後の銃声の後、住田は何処で何をしていたんでしょう?原作との差別化を図る為に、ミスリードをしてるとしか思えませんでした。監督の言葉を借りて「青春映画」にしたかったなら、空に向かって残弾を全部撃って、拳銃を投げ捨てるくらいの、爽快な演出に何故しなかったんだろう。

この疑問を解消すべく、「4発目(茶沢さんが目を覚ます発砲音)で住田は実は死んでいて、その後の住田は茶沢さんの妄想なのではないか?茶沢さんが見たかった、"走ってる住田"しか見えてないのではないか?だから住田はオウム返しでしか反応しないのではないか(なんか言え!というセリフとも整合性が取れる)?そうか、意味不明だった"五つの石の呪い"で、メン●ラ茶沢さん自身が呪われちゃった話だったんだ!」と、一人で勝手に解釈を決めつけて家路に着きました。

普段の園作品なら、多少脚本の粗があっても、画の構成と役者の芝居で全てを振り切ってしまえるだけの"テンション"が確実にあったと思う。それも今作は「震災」を無理矢理組み込んでしまった事で、その"テンション"をも減衰させてしまっているし、日本的寂寥で少年の孤独を描く古谷作品と、クリスチャン的に大きく大きく物語を動かそうとする園監督との食い合わせの悪さも発露してしまっている。

<結論>
・「震災」の組み込み方が中途半端で非常に浅薄
・古谷実と園子温の作家性の食い合わせが悪い
=「青春映画」にも「震災の記録」にもなり得ない、どっちつかずの作品に着地してしまった。

原作の熱狂的なファンからするともっともっと言いたい事はあるのだがグっと堪えてます。残念。非常に残念。

やっぱり僕は………

ポールが大好きなんだ!!!

2012/01/15

映画『ヒミズ』への期待と不安

漫画家・古谷実が、突如「笑い」を捨てて、シリアス路線に舵を切った問題作である『ヒミズ』が、『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』でお馴染みの園子温監督で映画化される、と聞いたときには、心が躍った。久々に前売り券をゲットしようかと思案するほど、漫画『ヒミズ』と監督『園子温』には思い入れがある。

『行け!稲中卓球部』『僕といっしょ』『グリーンヒル』のギャグ漫画3作で、古谷実は徐々に作家としての独自色を強めて行く。『稲中』では語彙のチョイスと絵のインパクトで笑わせていたのが、『僕といっしょ』では抗いようの無い「大人の世界」を最終回に至るまで徹底して描き、『グリーンヒル』では面倒臭い「大人の社会」に何とか順応しようと登場人物達がもがく。3作とも鋭いギャグ描写と並行して、少年の抱える閉塞感を背景にしていた。

『ヒミズ』からギャグを排し、『シガテラ』では遂に主人公が面倒な大人の社会に適合し「つまらない大人」へ到達する姿を描く。『グリーンヒル』で「人生最大の敵・面倒臭い」に打ち勝とうとゴロゴロしていた主人公が、『シガテラ』ではギリギリの非日常を体感した青春時代から、幾許かの虚しさを抱えながらも「つまらない大人」に成長する。『ヒミズ』は、丁度その成長途上にある物語とも言える。

『ヒミズ』の主人公・住田は、中学生としては実にクレバーだ。夢見がちなこの年頃の同級生達とは一線を画し、普通に社会に適合し、普通の大人になる事こそが最良であると信じている。自分が凡庸な人間である事を自覚し、身の丈に合った将来を目指しながら、しかし「普通の大人」になる事がいかに困難であるかも理解している。理解しているからこそ、自らの境遇が「普通」から逸脱しつつある事を敏感に察知してしまう。父親という、血縁で繋がれた逃れようのない「今の境遇の原因」と接触してしまった時に、住田は完全に「普通」のレールから脱落してしまう。ずるずると「病」を患った住田はその治癒を果たす事が出来ず、ラストでは「面倒臭い」と対峙する事を放棄してしまう。

決してフィクショナルな仰々しい不幸が彼に降り掛かるわけでは無い。作中のセリフにある通り、第三者からすれば10年後には笑って話せる程度の問題なのだが、本人にしてみれば不治の病なのだ。センシティブなこの時期の少年の描き方としての絶対的なリアルがある。だからこそ当方の様な、特別な非日常を体験していない自堕落人間にとっては「これは俺の物語!」と太鼓判を打ちたくなる傑作たらしめている。

そんなオールタイムベスト級の漫画を、『愛のむきだし』という、これまたオールタイムベスト級の映画作品を生み出した園子温が監督するというのだから、期待するなと言う方が無理な話である。物語を構築する手腕はさて置き(90分で纏められる話を240分かけて演出するタイプの監督だからだ)、役者陣から魂の演技を引き出す事に関しては右に出る者は居ないのではないか。『愛のむきだし』の、あの満島ひかりの号泣シーンは鮮烈に脳裏に焼き付いている。

しかし原作モノを映画化するにあたり、その原作ファンとしてはどうしても作品へのハードルが高くなってしまうのは、如何んともし難いジレンマだ。まして今作は撮影中に東日本大震災が発生した事で、物語の根幹を大きく変更しているというのだ。詳しくは園監督のインタビューを参照して頂きたい。

要するに、独力ではどうしようもない圧倒的な不幸が、主人公達に降り掛かってしまっているのである。恐らくはそこから立ち直る青春映画に舵を切り直したのであろう。あの震災を受けて、「無かった事には出来ない」という園監督の志には敬服する。今の日本で震災に真っ向から向き合った作品は是非観てみたい。

だが、こと『ヒミズ』を描く場合、この圧倒的な不幸は「ほんの些細な非日常から、少年が逸脱していく」物語と相反するものだ。古谷作品独特の、何故か魅力的な女性が凡庸な主人公に惹かれる不思議設定に、女性側の事情をストーリーに付け加えたのはまだ良いが、「震災」はこの物語の器にはとても納まりきらない。故に、主にラストに関しては大幅な「修正」が入る事が予想される。あのラストを改変する事は、原作ファンからしてみれば、ほぼ別の物語へ豹変してしまうに等しい。

「それでも園子温なら…園子温なら何とかしてくれる!」と、陵南高校のベンチメンバーが仙道に向ける熱い眼差しと同様に、当方もこの作品への期待を覆す事はないが、原作とは別物として割り切って観る覚悟は必須となりそうだ。鑑賞後、「必見!!!」と当ブログで、懲りずに読み辛い長文を綴る事が出来る事を願うばかりである。