ポエトリー アグネスの詩
「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督が、アルツハイマー症に冒され徐々に言葉を失っていく初老の女性が一編の詩を編み出すまでを描いた人間ドラマ。孫息子ジョンウクを育てる66歳のミジャは、自分がアルツハイマー型認知症であることが告げられ、さらに女子中学生アグネスの自殺事件にジョンウクがかかわっていたことを知る。ショックを受けたミジャは、アグネスの足跡をたどっていくが……。
ーーー映画.comより抜粋
ちょうどテアトルの割引券を持っていたのと、イ・チャンドン監督の新作とあらば行かねばなるまい、という事で、かなり期待値が高い状態で鑑賞しました。平日の昼間の回だったにも関わらず、劇場は年配層を中心にかなりの入り。特に本作の主人公ミジャと同年齢くらいであろう淑女の皆さまが、鑑賞後に“割り切れない何か”を抱えて去っていく姿が印象的でした。
この『ポエトリー アグネスの詩』を語る上で、どうしても触れなければならないのが、監督であるイ・チャンドン氏の作家性。小説家出身らしい、独自色の強い作品を持ち味としていて、「難解ではあるが、物凄いモノを見てしまった…」と思わされる、こちらのみぞおちに強烈なボディーブローを放つ奇作ばかりを撮り続けてきた監督です。
なにしろですね、当方はイ・チャンドン監督の前作『シークレット・サンシャイン』に、オールタイムベスト級の思い入れがあります。平たく言えば、宗教の抱える矛盾への問題提起であり、「“救い”はあるのか?」というテーマを真正面から描き切った傑作中の傑作。『ぐるりのこと』の木村多江も連想させるような、人間心理の奥深さをこれでもかと表現するチョン・ドヨンの迫真の演技といい、緊迫感を見事なまでに創出する“長回し”といい、韓国映画らしい救いの無いお話…と見せかけて、最後の最後ではどこか温もりを感じられるストーリーテリングといい、ほぼ隙の無い素晴らしい作品。文字通り「天に唾吐く物語」を、クリスチャンの多い韓国で描いた事がまず凄いし、基本的には無神教に近い日本人にこそ“刺さる”物語でした。
で、『ポエトリー』も『シークレット・サンシャイン』の系譜を脈々と受け継いでいる…どころか、イ・チャンドン氏の独自色はさらに色濃くなって発露されています。極端に排除されたBGM、のどかな地方を舞台にした寂寥感、そして何よりも鑑賞後、みぞおちに突き刺さるボディーブロー。本作は『シークレット・サンシャイン』に輪をかけて強烈なラストが待ち構えていますので、その衝撃たるや、銀座をテリトリーとする淑女たちの視点が定まらなくなるのも必然と言ったところでしょう。
どうしようもなく寄る辺を失くした女性が、“詩”に救いを求めるお話。しかし…
多少のコメディ演出も挿入されているにも関わらず、もう本当に「寄る辺ない」お話でした。
※以下、多少のネタバレが含まれます※
冒頭はですね、同じ韓国オバサン系傑作映画(当方が勝手に言ってるだけです)『母なる証明』のキム・ヘジャの印象が後を引いてしまっていたのか、主演のユン・ジョンヒさんのお芝居がどこか平べったく見えて「ん?」と違和感を覚えていました。でも日本で言えばこの人、市原悦子さんそのものじゃなかろうかと思えてからは、この違和感は解消され、むしろ愛着すら湧いてきました。
や、選んだ画像に問題があるかもしれませんが、本当に雰囲気がそっくりなんです。
そしてこの少し平べったく見えるお芝居すら、娘を「友達」と呼び、問題の本質から目を背け逃避してしまう主人公ミジャの“弱さ”の表現として、監督の狙い通りだったと気付かされてしまいます。『シークレット・サンシャイン』でも、序盤から既に主人公の“病巣”をほのかに匂わせていたのと同様ですね。どこまでデキる男なんだ、イ・チャンドン。
とにかく極端にBGMが抑えられた静かな演出とあいまって、ミジャのあまりの寄る辺なさに胸が痛みっぱなしなわけです。遂に“ある一線”を超えてしまうシーンに至っては…「この映像、誰得!?」と胸の中で叫ばずには居られませんでした。まさかここまで、ある種のエクストリーム映像を見せつけられるとは…。
詩の勉強会のシーンも本当に胸が痛くて、「幸せな瞬間は…無かったです」と話すオッサンに「生きろ!」とこれまた叫びたくなる。ミジャもミジャで涙ながらに話す“最も幸せな瞬間”、それ物心ついた直後じゃねーかよ…。もうね、不憫としか言いようが無いんです。
『シークレット・サンシャイン』の登場人物たちは、明らかに宗教で救われてもいます(そこが単純な宗教DISではなく、問題提起たらしめている要素)。そして本作も、主人公は詩に逃避し、最初は「詩なんて分からない」と言いながらも、要所で確実に救われてもいる。それでもどうしても、その詩の世界にすら自分の居場所が無いと気付いてしまう。ラストだけは、まだ温もりが感じられた『シークレット・サンシャイン』とは180度と言ってもいいほど対照的。やはり、寄る辺ない…の一言でした。最後のミジャのあの詩、よく見ると色んな所で聞いた詩のつぎはぎだったりしてますしね。
<結論>
本作も相変わらず、鑑賞後に「楽しかった!」「感動した!」「泣けた!」なんて軽々しく口には出来ない問題作でした。“説明”は意識的に省かれているし、わかりやすい善も悪も存在しません。またラストにより救いが感じられない分、個人的な評価は『シークレット・サンシャイン』を上回るものでもありませんでした。
しかし間違いなく超強烈なボディーブローが飛んで来ますので、韓国映画ファンや、ありきたりな感動超大作系の映画に食傷気味の方は、是非劇場に足を運んで観て下さい。本当に強烈です。
次回は、『ポエトリー』とは真逆と言っていいほど、これでもかと「エンターテイメント」の正道をやりきった『ヒューゴの不思議な発明』のレビューとなります。ちょっと結論めいた事を言ってしまいますが、エンターテイメントに於けるハッピーエンドの重要性を痛感させられた、素晴らしい作品でしたよ。
この『ポエトリー アグネスの詩』を語る上で、どうしても触れなければならないのが、監督であるイ・チャンドン氏の作家性。小説家出身らしい、独自色の強い作品を持ち味としていて、「難解ではあるが、物凄いモノを見てしまった…」と思わされる、こちらのみぞおちに強烈なボディーブローを放つ奇作ばかりを撮り続けてきた監督です。
なにしろですね、当方はイ・チャンドン監督の前作『シークレット・サンシャイン』に、オールタイムベスト級の思い入れがあります。平たく言えば、宗教の抱える矛盾への問題提起であり、「“救い”はあるのか?」というテーマを真正面から描き切った傑作中の傑作。『ぐるりのこと』の木村多江も連想させるような、人間心理の奥深さをこれでもかと表現するチョン・ドヨンの迫真の演技といい、緊迫感を見事なまでに創出する“長回し”といい、韓国映画らしい救いの無いお話…と見せかけて、最後の最後ではどこか温もりを感じられるストーリーテリングといい、ほぼ隙の無い素晴らしい作品。文字通り「天に唾吐く物語」を、クリスチャンの多い韓国で描いた事がまず凄いし、基本的には無神教に近い日本人にこそ“刺さる”物語でした。
で、『ポエトリー』も『シークレット・サンシャイン』の系譜を脈々と受け継いでいる…どころか、イ・チャンドン氏の独自色はさらに色濃くなって発露されています。極端に排除されたBGM、のどかな地方を舞台にした寂寥感、そして何よりも鑑賞後、みぞおちに突き刺さるボディーブロー。本作は『シークレット・サンシャイン』に輪をかけて強烈なラストが待ち構えていますので、その衝撃たるや、銀座をテリトリーとする淑女たちの視点が定まらなくなるのも必然と言ったところでしょう。
どうしようもなく寄る辺を失くした女性が、“詩”に救いを求めるお話。しかし…
多少のコメディ演出も挿入されているにも関わらず、もう本当に「寄る辺ない」お話でした。
※以下、多少のネタバレが含まれます※
冒頭はですね、同じ韓国オバサン系傑作映画(当方が勝手に言ってるだけです)『母なる証明』のキム・ヘジャの印象が後を引いてしまっていたのか、主演のユン・ジョンヒさんのお芝居がどこか平べったく見えて「ん?」と違和感を覚えていました。でも日本で言えばこの人、市原悦子さんそのものじゃなかろうかと思えてからは、この違和感は解消され、むしろ愛着すら湧いてきました。
そしてこの少し平べったく見えるお芝居すら、娘を「友達」と呼び、問題の本質から目を背け逃避してしまう主人公ミジャの“弱さ”の表現として、監督の狙い通りだったと気付かされてしまいます。『シークレット・サンシャイン』でも、序盤から既に主人公の“病巣”をほのかに匂わせていたのと同様ですね。どこまでデキる男なんだ、イ・チャンドン。
とにかく極端にBGMが抑えられた静かな演出とあいまって、ミジャのあまりの寄る辺なさに胸が痛みっぱなしなわけです。遂に“ある一線”を超えてしまうシーンに至っては…「この映像、誰得!?」と胸の中で叫ばずには居られませんでした。まさかここまで、ある種のエクストリーム映像を見せつけられるとは…。
詩の勉強会のシーンも本当に胸が痛くて、「幸せな瞬間は…無かったです」と話すオッサンに「生きろ!」とこれまた叫びたくなる。ミジャもミジャで涙ながらに話す“最も幸せな瞬間”、それ物心ついた直後じゃねーかよ…。もうね、不憫としか言いようが無いんです。
『シークレット・サンシャイン』の登場人物たちは、明らかに宗教で救われてもいます(そこが単純な宗教DISではなく、問題提起たらしめている要素)。そして本作も、主人公は詩に逃避し、最初は「詩なんて分からない」と言いながらも、要所で確実に救われてもいる。それでもどうしても、その詩の世界にすら自分の居場所が無いと気付いてしまう。ラストだけは、まだ温もりが感じられた『シークレット・サンシャイン』とは180度と言ってもいいほど対照的。やはり、寄る辺ない…の一言でした。最後のミジャのあの詩、よく見ると色んな所で聞いた詩のつぎはぎだったりしてますしね。
<結論>
本作も相変わらず、鑑賞後に「楽しかった!」「感動した!」「泣けた!」なんて軽々しく口には出来ない問題作でした。“説明”は意識的に省かれているし、わかりやすい善も悪も存在しません。またラストにより救いが感じられない分、個人的な評価は『シークレット・サンシャイン』を上回るものでもありませんでした。
しかし間違いなく超強烈なボディーブローが飛んで来ますので、韓国映画ファンや、ありきたりな感動超大作系の映画に食傷気味の方は、是非劇場に足を運んで観て下さい。本当に強烈です。
次回は、『ポエトリー』とは真逆と言っていいほど、これでもかと「エンターテイメント」の正道をやりきった『ヒューゴの不思議な発明』のレビューとなります。ちょっと結論めいた事を言ってしまいますが、エンターテイメントに於けるハッピーエンドの重要性を痛感させられた、素晴らしい作品でしたよ。