漫画家・古谷実が、突如「笑い」を捨てて、シリアス路線に舵を切った問題作である『ヒミズ』が、『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』でお馴染みの園子温監督で映画化される、と聞いたときには、心が躍った。久々に前売り券をゲットしようかと思案するほど、漫画『ヒミズ』と監督『園子温』には思い入れがある。
『行け!稲中卓球部』『僕といっしょ』『グリーンヒル』のギャグ漫画3作で、古谷実は徐々に作家としての独自色を強めて行く。『稲中』では語彙のチョイスと絵のインパクトで笑わせていたのが、『僕といっしょ』では抗いようの無い「大人の世界」を最終回に至るまで徹底して描き、『グリーンヒル』では面倒臭い「大人の社会」に何とか順応しようと登場人物達がもがく。3作とも鋭いギャグ描写と並行して、少年の抱える閉塞感を背景にしていた。
『ヒミズ』からギャグを排し、『シガテラ』では遂に主人公が面倒な大人の社会に適合し「つまらない大人」へ到達する姿を描く。『グリーンヒル』で「人生最大の敵・面倒臭い」に打ち勝とうとゴロゴロしていた主人公が、『シガテラ』ではギリギリの非日常を体感した青春時代から、幾許かの虚しさを抱えながらも「つまらない大人」に成長する。『ヒミズ』は、丁度その成長途上にある物語とも言える。
『ヒミズ』の主人公・住田は、中学生としては実にクレバーだ。夢見がちなこの年頃の同級生達とは一線を画し、普通に社会に適合し、普通の大人になる事こそが最良であると信じている。自分が凡庸な人間である事を自覚し、身の丈に合った将来を目指しながら、しかし「普通の大人」になる事がいかに困難であるかも理解している。理解しているからこそ、自らの境遇が「普通」から逸脱しつつある事を敏感に察知してしまう。父親という、血縁で繋がれた逃れようのない「今の境遇の原因」と接触してしまった時に、住田は完全に「普通」のレールから脱落してしまう。ずるずると「病」を患った住田はその治癒を果たす事が出来ず、ラストでは「面倒臭い」と対峙する事を放棄してしまう。
決してフィクショナルな仰々しい不幸が彼に降り掛かるわけでは無い。作中のセリフにある通り、第三者からすれば10年後には笑って話せる程度の問題なのだが、本人にしてみれば不治の病なのだ。センシティブなこの時期の少年の描き方としての絶対的なリアルがある。だからこそ当方の様な、特別な非日常を体験していない自堕落人間にとっては「これは俺の物語!」と太鼓判を打ちたくなる傑作たらしめている。
そんなオールタイムベスト級の漫画を、『愛のむきだし』という、これまたオールタイムベスト級の映画作品を生み出した園子温が監督するというのだから、期待するなと言う方が無理な話である。物語を構築する手腕はさて置き(90分で纏められる話を240分かけて演出するタイプの監督だからだ)、役者陣から魂の演技を引き出す事に関しては右に出る者は居ないのではないか。『愛のむきだし』の、あの満島ひかりの号泣シーンは鮮烈に脳裏に焼き付いている。
しかし原作モノを映画化するにあたり、その原作ファンとしてはどうしても作品へのハードルが高くなってしまうのは、如何んともし難いジレンマだ。まして今作は撮影中に東日本大震災が発生した事で、物語の根幹を大きく変更しているというのだ。詳しくは園監督のインタビューを参照して頂きたい。
要するに、独力ではどうしようもない圧倒的な不幸が、主人公達に降り掛かってしまっているのである。恐らくはそこから立ち直る青春映画に舵を切り直したのであろう。あの震災を受けて、「無かった事には出来ない」という園監督の志には敬服する。今の日本で震災に真っ向から向き合った作品は是非観てみたい。
だが、こと『ヒミズ』を描く場合、この圧倒的な不幸は「ほんの些細な非日常から、少年が逸脱していく」物語と相反するものだ。古谷作品独特の、何故か魅力的な女性が凡庸な主人公に惹かれる不思議設定に、女性側の事情をストーリーに付け加えたのはまだ良いが、「震災」はこの物語の器にはとても納まりきらない。故に、主にラストに関しては大幅な「修正」が入る事が予想される。あのラストを改変する事は、原作ファンからしてみれば、ほぼ別の物語へ豹変してしまうに等しい。
「それでも園子温なら…園子温なら何とかしてくれる!」と、陵南高校のベンチメンバーが仙道に向ける熱い眼差しと同様に、当方もこの作品への期待を覆す事はないが、原作とは別物として割り切って観る覚悟は必須となりそうだ。鑑賞後、「必見!!!」と当ブログで、懲りずに読み辛い長文を綴る事が出来る事を願うばかりである。