※当ブログの趣旨※

※当ブログの趣旨※

某映画雑誌編集者との酒の席で「映画レビューを書くべき」と勧められ、「チラシの裏で良ければ」と開始した、基本は身内向けの長文ブログ。
決して知識が豊かとは言えないライト映画ファンが中の人です。

・作品を未見の方には、(極力ネタバレせず)劇場に足を運ぶか否かの指針になれば
・鑑賞済みの方には、少しでも作品を振り返る際の余韻の足しになれば

この2点が趣旨であり願いです。定期的にランキングは付けますが、作品ごとの点数付けはしません。
作品によってはDISが多めになります。気分を害されましたらご容赦下さい。
たまーに趣味であるギターや音楽、サッカー観戦録、スノーボードのお話なども登場します。

2012/03/24

(いまさら)長文映画レビューシリーズ 『ミレニアム2 火と戯れる女』




ミレニアム2 火と戯れる女

敏腕ジャーナリストのミカエルと天才ハッカーのリスベットが協力し、大富豪バンゲル家で起きた連続殺人事件を解決してから1年。リスベットはこつ然と姿を消したままだったが、少女売春組織を追っていたジャーナリストの殺害現場でリスベットの指紋がついた銃が発見される。無実を確信するミカエルは、仲間とともに事件の真相を追うが……。
ーーー映画.comより抜粋


デヴィッド・フィンチャー版の『ドラゴン・タトゥーの女』を鑑賞して以降、すっかりリスベット・シンパに成り果てております。スウェーデン版の『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』もミステリーとして最高だったので、早くミカエルとリスベットの凸凹コンビに会いたい!と。二人の活躍をもっと見せてくれ!と。意気揚々とレンタルで鑑賞したわけです。

結果、この「もっとミカエル&リスベットの活躍を見せてくれ!」という期待は、盛大に裏切られることとなりました。

少し髪が伸びたリスベットが相変わらず美しいし、「リスベットは殺していない」と断言するミカエルも超カッコイイ。リスベットに助けられた前作と逆転して、ミカエルがリスベットを助け出そうとする展開なのか!燃える!!早く二人でタッグを組んで、謎を解き明かしてくれ!

…と序盤は身も心も前のめりで鑑賞していたものの、主役二人の物語のクロスをラストのラストまで溜めこむ作りに、中盤からはやや退屈さを覚えてしまいました。それ故に、ようやく二人が一年ぶりに邂逅するシーンでは、形容のし難い感動に襲われるのですが、なんぼなんでも“溜め過ぎ”なのでは…?

徹底して男性を最低のクソとして描くアイデンティティは根底にしっかり流れていて、これぞミレニアム!という雰囲気を感じる事も出来るものの、どうも演出がチープでテンポが悪い。180分があっという間だった『ドラゴン・タトゥー』からどうしてこうなった?と思っていたら、案の定前作からは監督が交代していたんですね。

特に格闘シーンのテンポの悪さは顕著。“無痛症の木偶の坊”という、いくらでも魅力的に描けそうなキャラも、ただの鈍重な間抜けにしか見えなくなっているのはいただけない。ラストに至ってはあの金髪、ほぼ居なかったかの様な扱いにされてるし。

命の恩人であるリスベットを蔑ろにして、愛人と現を抜かしていたミカエルが、ようやく彼女の抱える傷の深淵を知る事こそが最大のテーマなので、「二人の活躍で痛快な謎解きが見たい!」とか「二人の不思議な恋の行方も気になる!」といった様な期待には、ハナから一切応える気が無い作品なんですね。「ミステリーに寄せる気も有りませんよ?」と作り手から言い放たれた気すらしました。


<結論>
そもそもミステリーですらなくなって、ミカエルがリスベットの抱える痛みの多さに(いまさら)気付く為の130分。それはそれとして楽しむ事は出来るのですが、やはり二人の凸凹タッグ復活に大きなを期待していた分、多少興が削がれた気はしてしまいます。噂では聞いていたものの、世の“三部作”の系譜にありがちな、“3の為の2”として大胆に割り切って作られている印象でした。それはそれでとっとと3を観たくもなりますし、これだったらフィンチャーに思いっきりキャラをデフォルメして作ってもらった方が、2作目以降は面白くなるかもな…という希望を持つ事も出来ましたね。1作目だけで投げないでね、フィンチャーさん。


この『火と戯れる女』の続編にして、ミレニアムサーガの最終章となる『眠れる女と狂卓の騎士』を次のレビュー…としたいところなのですが、時間の都合で次回の作品は『スーパー!』のいまさらレビューとなります。

2012/03/21

長文映画レビューシリーズ 『ヤング≒アダルト』




「JUNO ジュノ」の監督ジェイソン・ライトマン&脚本家ディアブロ・コーディのコンビが、主演にアカデミー賞女優シャーリーズ・セロンを迎え、再タッグを組んだコメディドラマ。児童小説家のメイビスは、夫と離婚後すぐに故郷ミネソタに帰ってくる。そこで、かつての恋人バディに再会し復縁しようとするが、バディにはすでに妻子がいて……。


「こんなに必死に生きてきたのに、この空虚さは何だ?」
「形だけのラグジュアリーを手にして、それが成功か?」
そして…「大人になるってどういう事だ?」

そんな普遍的で身に沁みるテーマを描き、答えは作品内で提示する事無く観客に投げかける、ジェイソン・ライトマン監督の前作『マイレージ・マイライフ』の大ファンとして、かなり期待値高めで劇場に足を運びました。タイトルを見てお分かり頂ける通り、本作『ヤング≒アダルト』は…

「“大人”ってどういうこと?」
「あなたは理想の“大人”になれたの?」
「あの頃の自分の方がよっぽど輝いてたんじゃないの?」

…というストレートなメッセージを、残酷なまでにこれでもかと投げかけて来ます。今更どうする事も出来ない、“過去の自分”に、少しでも縋ってしまう瞬間がある人なら、間違い無く楽しめる傑作でしょう。

ただ、あちこちで本作の評価として使われている通り、とにかくあらゆる意味で「痛い!」作品でもあります。見るに堪えないくらい痛いんだけど、どこかで主人公とリンクしてしまって、気付けば「これは…俺の(私の)物語なんじゃないか…?」と思わされてしまう、恐ろしい引力。その引力のせいで、物語のクライマックスでは主人公と自分との落差を感じてしまうリスクもあるのですが…その点は後述したいと思います。

本作の面白さはオープニングに見事なまでに集約されていました。Youtubeにも上がっていたので貼っておきます。過去に捕らわれた主人公が、きょうびカセットテープを引っ張り出して聴いている事自体が象徴的なのですが、テープもプレイヤーも“まだちゃんと動く”ってところが巧いし、ハリウッド版のドラゴンタトゥー並みにカッコ良いオープニングでした。




※以下、多少のネタバレが含まれます※



本作の主人公メイビスは、偏ったキャリア志向だし高飛車だしすぐ嘘吐くし、自分に都合の悪い意見は完全シャットアウトして、ちょっと自分を誉めて肯定してくれただけで絶望からも立ち直る超自己中。自己顕示欲の塊が服来て歩いている状態。おまけにビッ●でヤリマ●(作中で出てくる形容ですよ。念のため)のロイヤルストレートフラッシュ。それなのに気付けばコイツを憎めなくなるのが映画マジックであり、本作最大の見せどころ。

美人で、仕事も傍から見れば(日本で言えばラノベかケータイ小説に当たる“作家”で、誰よりメイビス当人がその分野に満足していないものの)充実している、正に才色兼備。
…と見せかけて、飼い犬への餌は手抜きだわ、切れかけのプリンターインクは唾液で水増しするわ、見栄張ってホテルのカードキーは2枚頼むわ、自分の話ばっかりしたがるわ、他人の幸せを自分の都合のみで破壊しようとするわ、おまけにそれが相手の幸福にもなると勝手に思い込んでいるどうしようもないヤツ。だからこそ、それだけこのキャラに引っ掛かるフックが沢山用意されているとも言えて、全てはとても書き切れませんが、キャラの描き方は見事の一言に尽きます。

過去の栄光に縛られているメイビスの鏡として、過去の屈辱に縛られているマットとの対比が象徴ですね。
メイビスに面と向かって「君は狂っている」と言えるのはマットだけで、陰惨過ぎるトラウマで障害を抱え、オタク化しているマットに「もっと早く歩いてよ」と言えるのもきっとメイビスだけ。かつてはヒエラルキーの頂点と底辺に居た者が、現在では唯一の理解者として認め合えてしまうこの構造は、歪ではあるけども互いの救いとして感動的でした。

そうしたキャラの積み上げが実に見事であるが故に、クライマックスでのメイビスの暴走で「そこまで生き恥を晒してやるなよ!」と、スクリーンに向かって叫びたくなる。そこまで存分にメイビスに感情移入してしまっているので尚更、主人公を惨めな晒し者にされた様な気がして、「痛い!胸糞悪い!痛い!酷過ぎる!」と憤然としてしまうのですね。

ここでそれまで観客に知らされていなかった重大なメイビスの過去も暴露されるので、宇多丸師匠の番組で紹介されたメールにもあった通り「これは俺の(私の)物語ではなく、メイビスのパーソナルな物語なのでは…?」と、強烈に作品から突き放されたような落差を感じてしまう。個人的な好みの話ですが、あんなにもヤケクソ赤っ恥シークエンスにすること無いのに…もったいないなぁ…と、奥歯に物が挟まったような消化不良感を覚えてしまいました。

ただそんな消化不良感すらも、おそらくは制作者側の思惑通りで、「だからあんなにも赤ちゃん画像に食いついてしまったのか…」と、冷静に序盤を振り返る事で腑に落ちるシーンが沢山あるんですよね。巧いなぁと言うしかない。そして自分の味方に心情を吐露して、同意を得ることで(多少の反省もしているのだろうが)完全復活を果たすメイビス。痛すぎる赤っ恥をかいても、30年以上積み重ねた己の性格はそうそう変えられない。凹んだ車同様、自分もすっかりポンコツになっちゃったけど、それでも………

「まだ走れる!!」

こんなにも歪でどうしようも無い主人公に、なんだかんだで背中を押されてしまう、素晴らしい作品だったのではないでしょうか。オープニングとの対比も最高です。

<結論>
三歩進んで二歩下がっちゃったけど、また一本踏み出そう、踏み出すしかねーんだよ!そんなラストに、同じように踏んだり蹴ったりの日常を生きる我々もまた、一歩踏み出す力を分けて貰える。映画のマジックを存分に味わえた傑作でございました。
ただし、やっぱりクライマックスは痛すぎる。そして最終的にマットの扱いが不憫過ぎる。ほんのワンカットでも良いから、その後のマットにも触れて欲しかったのに放ったらかしだから、「結局メイビスって最低最悪じゃん!!」と集中砲火を浴びても言い訳が出来ない気がします。だとしても、鑑賞後に自分の恋愛観や人生観を多いに語り合いたくなるという意味で、やっぱり映画として傑作だと思うのです。それまでの自分の人生によっては、生涯最高の作品となる可能性すら秘めているのでは。ぜひ騙されたと思って劇場へ!!


次回はスウェーデン版「ミレニアム」の2作目をいまさらレビューの予定です。

2012/03/19

(いつも以上に)長文映画レビューシリーズ 『おかえり、はやぶさ』




世界で初めて地球から3億キロ離れた小惑星イトカワの微粒子を採取して地球へ帰還した無人小惑星探査機はやぶさと、そのプロジェクトに携わった人々のドラマを全編3Dで映画化。18年間に及んだプロジェクトを、計画に携わった人々の親子の絆や再生を交えながら描く。監督は「ゲゲゲの鬼太郎」「鴨川ホルモー」の本木克英。


過去の『はやぶさ』関連作品を全て鑑賞してしまった為か、この作品だけは嫌でも観なければならない強迫観念に捉われ、3Dで(評判の宜しくないXpanDではありましたが)じっくり見届けて来ました。劇場を出た後には、映画への感想はともかくとして、「やった…おれはやってやった…!」と、“はやぶさクロニクル”の全てを目撃した自分を最大限労ってやりました。

当方の『はやぶさ』へのスタンスや過去作への評価は、前作に当たる『はやぶさ 遥かなる帰還』のレビューをご参照ください。堤幸彦版、渡辺謙版、そして今回の3D版と劇場用の三作ばかりが話題を集めていますが、全天周版のことを絶対に忘れないで下さいね。ちゃんと映画館でも上映されたんですから。そして今回の『おかえり、はやぶさ』を見終えての感想は、この一言に尽きます。

“はやぶさクロニクル”は、やはり全天周版こそが至高!!



※以下、多少のネタバレが含まれる上、史上最長クラスの長文となりますので、興味の無い方は読み飛ばして下さい。興味ある方も斜め読みをオススメします※



かなり子供向けに振り切った作りになっているのだろうと覚悟はしていたものの、のっけからいきなり藤原竜也が重々しいトーンで

「奇跡の惑星、地球…」

とかモノローグし始めた時には、何かの啓蒙映画か宇宙戦艦ヤマトでも始まるのかとソワソワしてしまいました。デフォルメされた『はやぶさ』に前田旺志郎を跨らせたCGにも心底ギョッとさせられましたが、子供たちに『はやぶさ』を説明するくだりで大塚愛のあの曲が流れる場面に至っては…「そのシーン、要る?!」と脳内で叫ばずには居られず…。

あぁやっぱりか、と。分かってた事じゃないか、と。開始10分ほどで、半ばこの作品を楽しむ事を放棄しかけました。子供たちがこの映画を観て、何かしらの夢や希望を胸に映画館を後にしてくれれば良いじゃないか、と。…が、しかし。前述した通り、中盤までは意外や意外に相当楽しめました。このまま行けば、無事に“着地”してくれれば、少なくとも今年公開の邦画の中ではトップクラスで良いんじゃないの?と思えるまでに。

まず特筆したい点として、プラネタリウム的な宇宙の描写と3D演出って、とっても相性良い!!
これは個人的には新鮮な発見でした。と言うのも『アリス・イン・ワンダーランド』を観た時に当時のブログにも書いたのですが、「飛び出す」よりも「奥行きが出る」という表現の方が近い3D演出に於いて、せっかくの色使いや美しい背景が遠く、暗くなってしまうのはデメリットの方が大きいのではないかと、ずっと感じていたのです。それこそ『アバター』レベルの予算を掛け、3D演出前提で制作された作品をIMAXなどの優れた環境で観れば話は別ですが。

ところが、背景は殆ど暗闇である宇宙空間であれば、スクリーンがどうしても暗くなってしまうXpanDで観てもそれほど違和感が無い。『スターウォーズ』みたいに、スピーディー且つ壮大な宇宙戦が展開されるわけでもないですから、悪く言ってしまえば誤魔化しが効く。『はやぶさ』と一緒に宇宙にぽっかりと浮いているような感覚が味わえましたし、『アバター』以外の作品では初めてと言っていいくらい、3D効果を純粋に楽しめました(あくまで宇宙空間の演出部に限りますが)。

そして目からウロコだったのは、『はやぶさ』関連作ではすっかりお馴染みの「はやぶさ擬人化作戦」を、「さぶっ!」と主人公の口から直接的にDISる点。かと言って「擬人化」に夢を抱く側(本作で言えば杏)を一方的に切り捨ててしまうのではなく、ちゃんとその発想に至るキッカケも掘り下げてくれる。これはなかなか粋な演出だったのではないでしょうか。三浦友和と藤原竜也親子が決定的に対立してしまうシーンもなかなか良く出来ていて、本作のテーマもここで堂々と掲げられます。『遥かなる帰還』の「俺たち普通の日本人の技術の結晶が、この奇跡を生んだ!」というカタルシスに対して、本作は「どんな大失敗も、諦めなければ大成功に繋がる!」(キリッ)という、一種のリベンジ劇に重点を置くんですね。むしろここまで来ると「子供向け作品でここまで掘り下げていいのか?」と余計な世話を焼きたくなってくるレベル。自分が10歳児だったら確実に寝てますね。 


しかしながら残念なことに、返す返すも後半が酷い。他作品に『はやぶさ』映画化の先を越され、焦るあまり雑にお話を畳みにかかったのではないかと邪推したくなるくらい。

とりあえずそんなあっさり海外でドナー見つけるなよ
「宇宙プロジェクトは失敗しても直ぐ次のプロジェクトに(しかも税金で)移行できるが、人命はそうはいかん」という提示が一瞬で軽くなる。それでなくても、小学校低学年の教科書かよ!ってレベルで、セリフも演出も説明的に作られている作品なのに、人命までご都合主義で扱われたらさすがに腹が立ってきます。あんなに意固地だった三浦友和もあっさり講演に復帰しちゃって、しかもその講演は少ししか描写しないし…。

要するにですね、『はやぶさ』がいざ帰還するぞ!っていう映画のクライマックスを迎える前に、登場人物たちの問題はあらかた片付いちゃってるんです。それなのに超説明的なセリフが引き続き羅列されるので、もういい加減白けてきちゃって、いよいよ本当に啓蒙されているような、プロパガンダを見させられているような気分すらしてくる。挙句「私達に、『新しい道はこっちだよ』って示してるみたい…」と勝手な概念を押しつけるセリフが放たれた日には…。それは絶対にセリフにしちゃダメだろうがよ!!!

そもそも映画館にわざわざ観に行く層の殆どは、『はやぶさ』のストーリーの着地点はとっくに知ってるでしょう。満身創痍で地球に辿り着いて、「最後に故郷を見せてあげよう」って写真撮って…………そのクライマックス、いい加減食傷です。


「ま、子供向けだからさ」って挙げた拳を下ろす事もやぶさかではないのですが、だったら群像劇に拘らないで、もっとディテールを積み重ねて養育番組的に練り上げて、視覚効果を更に徹底して追及すべきだったのでは。繰り返しますが、絶対にあの中盤で子供は飽きますよ(現に並びのお子さんは気持ち良さそうにお眠りになってたし)。子供を楽しませる事も中途半端で、保護者層にはご都合主義を押しつけてちゃあ世話ねぇよ、と。

大気圏で燃え尽きた『はやぶさ』を見る事で、三浦友和はもう一度宇宙に思いを馳せ、講演を再開するなり復職するとか、ドナーはなかなか見つからないけど、それでも奇跡を信じて強く生きようとか、ちょっと演出の配置と順番を変えるだけで全然良くなると思うんですけどね。それでエンドロールで、元気になった三浦友和や森口瑤子を描写すれば良いじゃないですか。少なくとも、カンニング竹山に取って付けたようなプロポーズをさせたり、劇中最後の最後がダントツで「サブい」わ!!と言わざるを得ない、どうしようもないセリフで幕を閉じて「はい、群像劇でしたよ~」っていう、文字通りの“子供騙し”をされるよりは。

『遥かなる帰還』では中途半端な扱いだった「はやぶさが見つかるパーセンテージ」のトリック(実際は「条件が揃うパーセンテージ」)をやってくれたのは嬉しかったし、これ以上ないくらいイヤミな“蓮舫DIS”には「よくぞ言った!」と賛辞も贈りたい

それらの長所を全て帳消しにしてしまうくらい、後半はグダグダ。そして、あまり周りで言及されている方が居ないのですが、特に終盤の「音楽」はヤバくなかったですか?。エキセントリックとかいう域を超越しちゃってて、ちょっと正直恐ろしくすらなりましたね。御大・冨田勲さん、どうしちゃったんでしょうか…。




<結論>
「はやぶさは映画より奇なり」とでも言いますか、やっぱり劇映画と『はやぶさ』の食い合わせは悪い。何回も言いますが『はやぶさ』の物語は、びっくりするくらいご都合主義で、「奇跡」に限りなく近い現実が実際に起きたんですよ。だったらそれを取り巻く人間ドラマは、できるだけ脚色し過ぎない方が良くないですか?そう何回も起きないから、奇跡に価値があるのでは?

それが嫌なら、もっともっと思い切って子供向けのディテールを積み上げるか、やはりドュメンタリーにすべき…って事で全天周版こそが至高!という結論に行き着きますね。

これにて、“はやぶさクロニクル”はひとまず完結。思い入れが強い分がっつりと書き込みましたが、まさかここまでの長文になるとは…。駄文に最後までお付き合い頂いた奇特なみなさん、ありがとうございました。ごめんなさい。“ボロをまとったマリリン・モンロー”は、どこに着地しましたか?

次回はおそらく『ヤング≒アダルト』となる予定です。多分。公開が終わらなければ!ダッシュで鑑賞して、更新します!!

2012/03/18

(いまさら)長文映画レビュー 『ゴーストライター』



元英国首相アダム・ラングの自伝執筆を依頼されたゴーストライターが、ラングの滞在する孤島を訪問。取材をしながら原稿を書き進めていくが、次第にラングの過去に違和感を抱き始める。さらには前任者の不可解な死のナゾに行き当たり、独自に調査を進めていくが、やがて国家を揺るがす恐ろしい秘密に触れてしまう。「チャイナタウン」「戦場のピアニスト」のロマン・ポランスキー監督が描く本格サスペンス。
ーーー映画.comより抜粋


ここのところの多忙で更新がすっかり滞ってしまいました。怠けてごめんなさい。

前回予告した通り、一部では「2011年ベスト映画!」との呼び声も高い本作のレビューと行きたいところなのですが、いかんせん鑑賞したのが1週間以上前で、感想をまとめたメモを手違いで破棄してしまうというグダグダっぷり。手元に残っているのは、当記事の下書きとして記されていた、この二言のみ。


ヒッチコック、ブレア首相


これだけで、本作を鑑賞した方には伝わるモノもある…はず…ありますよね?

そんな訳で、今回は非常に恐縮ですが、超短縮系レビューで強引に完結しようと思います。普段が無駄に長過ぎて、見て頂いている方の9割が記事の9割5分を読み飛ばしている事で有名な当ブログですからね。問題無いですよね。では早速結論です。


<結論>
・エンディングが超かっこいい!!!
・それ以外は…まぁ…うん。
(監督がアメリカに入国出来ない事情があるにせよ、ちょっとCGが目立ち過ぎた)

ヒッチコックリスペクトに溢れた巻き込まれ型サスペンスとして、非常に上質の物語だとは思います。ただ前評判を耳にして過度な期待を抱いてしまった部分もあり、もう一つ作品にノリ切れなかったのが悔やまれるところ。…以上!!!


次回はいよいよ“はやぶさクロニクル”完結編、『おかえり、はやぶさ』を懲りない長文でお届けします。

2012/03/04

(いまさら)長文映画レビュー 『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』



ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女

スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンの処女作にして遺作となった大ベストセラー小説の映画化。原作は、著者の死後、世界中で2100万部を売り上げたミステリー巨編。主演は新星ノオミ・ラパス。40年前、スウェーデンの資産家の邸宅から忽然と姿を消した少女がいた。少女の親族から捜索依頼を受けたジャーナリストのミカエルは、背中にドラゴンのタトゥーを入れた天才ハッカー・リスベットの協力のもと、事件解明に挑む。
ーーー映画.comより抜粋


ハリウッドリメイクである、デヴィッド・フィンチャー版の『ドラゴン・タトゥーの女』が素晴らしかったので、本家スウェーデン版も早速レンタルして鑑賞。今回はそのハリウッド版との対比をメインとした語りになりますが、最も顕著な違いにして最大の長所であるのはこの点。

ミステリーとして、めっっっちゃめちゃ面白い!!!

ハリウッド版のレビューでも触れた通り、フィンチャーの『ドラゴン・タトゥーの女』はやはり、キャラクターの造形にかなりウェイトを傾けて作られていたんですね。ミステリーとしての謎解きとか人間ドラマは二の次にして、相当キャラを(悪く言えば)デフォルメしてリメイクしたんだな、と。スウェーデン版が本格ミステリーだとしたら、ハリウッド版はちょっとアメコミ的ですらあるというか。

当方はハリウッド版のリスベットが「超」が付くぐらい大好きですが、このスウェーデン版はミステリーとしての完成度がメチャクチャ高い。DVDでは劇場未公開シーンを加えて、180分を越える収録時間になっているのですが、その分設定や人物の紹介が実に丁寧に説明されていて、どんどん続きが気になってしまうストーリーテリング。長尺を全く感じさせない大傑作でした。これを観たら(そして原作小説のファンなら)ハリウッドリメイクの“デフォルメ過多”に違和感を覚えてしまうのも無理もないですね。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


逆にハリウッド版も「思ったより忠実に作られていた部分もあったんだな」と気付くシーンも多々あります。作中で使われるメインPCが軒並みMacだったり、壁に写真を貼って相関図を作るのもそうだし、特に序盤は展開やカットの作り方までそっくりでした。ハリウッド版の方が面白くなっていた要素もあって、リスベットの後見人弁護士なんかはデフォルメがされた分、ハリウッド版の方がより最低最悪の下衆野郎として機能していたと思うし、これもレビューで挙げましたが“エスカレーターアクション”はハリウッド版のオリジナルアイデアなので、あれはやっぱり良かった。

このスウェーデン版は、当方の様なあまり積極的にミステリー小説を読んだりしない層にも、物凄く分かり易く物語の中へ誘ってくれるのが、まず好印象。真犯人が分かっている状態で見ると顕著なのですが、序盤で「誰が真犯人なのか」をさりげなく匂わす作りにも、思わずゾッとさせられました。

何よりも主要の登場人物の掘り下げが本当に丁寧で、それだけでグイグイ引き込まれてしまいます。実はミカエルと「ハリエット」との間に、幼少の頃からの“因縁”があった点は、「闘争相手の弱みを教える」という人参をぶら下げる事でミカエルが動き出すハリウッド版と比較しても、この物語が転がり出す動機としてより絶妙に機能していました。真犯人も「ちゃんと」下衆野郎として見る事ができますので、ハリウッド版の「真犯人ショボ過ぎ問題」が浮き彫りになりますね。

唯一イチャモンを付けるとしたら、ラスト近辺のとある場面で、ミカエルがグラサンを付けてたり外してたりして“繋がり”が崩れているシーンが気になってしまったくらい。これはいくら「完全版」とは言えども、カットすべきシーンだったのでは。ま、笑って許せるレベルなんですけど。

<結論>
人物を丁寧に丁寧に掘り下げている事で、ミステリーとしても人間ドラマとしても全編を通して深みがあります。ラストのカタルシスもこれによって非常にダイナミックになってますし、速攻で残り2作も鑑賞したくなりました。
ハッキリ言って、ハリウッド版より面白い!!とすら思います。あちらはフィンチャー特有の悪趣味が発露され過ぎているきらいもあったし、やっぱり「ネコ」をあんな扱いにしやがった罪は重い。リスベット単体の“フォルム”で言えば、ハリウッド版の方が断然魅力的なんですけど、それってやっぱりアメコミ的な魅力だったなぁと再確認致しました。


これにより、ミレニアムシリーズの続編『火と戯れる女』、『眠れる女と狂卓の騎士』も近々レビューする事になりそうです。その前に、次回の更新は2011年上映作でベストとの声も聞かれた『ゴーストライター』の、いまさらレビューとなります。

長文映画レビューシリーズ 『ヒューゴの不思議な発明』




ブライアン・セルズニックの冒険ファンタジー小説「ユゴーの不思議な発明」を、マーティン・スコセッシ監督が3Dで映画化。駅の時計台に隠れ住む孤児の少年ヒューゴの冒険を、「映画の父」として知られるジョルジュ・メリエスの映画創世記の時代とともに描き出す。主人公ヒューゴを演じるのは「縞模様のパジャマの少年」のエイサ・バターフィールド。イザベル役に「キック・アス」「モールス」のクロエ・モレッツ。2012年・第84回アカデミー賞では作品賞含む11部門で同年最多ノミネート。撮影賞、美術賞など計5部門で受賞を果たした。
ーーー映画.comより抜粋

予告編を観た限りでは、「何でこんなに前評判が高いのだろう」と疑問に思っていた作品。スコセッシの集大成にして最高傑作!なんて推しがあちこちでされる理由を確かめるべく鑑賞して参りました。結果、雑誌やらネットやら映画評論家やらが褒めそやす理由はよく分かりました。いつも通りものすごく乱暴に一言でまとめると、こんなところ。

いやぁ、映画って、本当にいいものですね~(しみじみ)

…と、草葉の陰から水野晴郎さんが微笑み掛けているかの様な作品なんですね。
それも、当ブログでも取りあげた『宇宙人ポール』的に、要所で名作映画へのリスペクトを散りばめるというよりも、もっとストレートに映画の素晴らしさを語り聞かせるスタンス。そりゃ映画関係者は腐すわけにはいかないよね。いや、実際面白かったんですけど、正直そこまで誉めるか~?と、前評判の高さ故に思ってしまった部分もあります。ただ、後述するある1点がパンチラインとなり、それだけで個人的には「観て良かった」と素直に思わされる事となりました。

尚、時間の都合で2D版を鑑賞してしまったのですが、あのジェームズ・キャメロンも太鼓判を押したという3D版でもう一回観直したいですね。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


3Dで観直したくなる最大の理由として、とにかくカメラワークが「楽しい!」の一言なんですよ。パリの上空から始まって、ヒューゴの顔にカメラが寄るまでをワンカットで見せるオープニングがその象徴で、実に正しいCGの豪華な使い方。画的なインパクトという意味でも構成的にも、当方はFINAL FANTASY VIIのオープニングムービーをちょっと思い出しました。これに限らず全編を通して、縦横無尽自由自在に動き回るカメラと、そして歯車を中心としたギミックの面白さは必見ですね。オスカーの“ルックス系”の賞を総ナメにしたのも頷けます。

ストーリーとしては、「映画の父」と呼ばれるジョルジュ・メリエスの物語を少年の目線で追う事で、『月世界旅行』の製作譚も同時に追う事が出来る作り。後付けで色を塗ったフィルムの独特の発色具合なども見所。
こういった、映画ファンが誉めちぎりたくなるような“映画愛”的レビューは、あちこちで様々な方が、こぞって自身の映画バックグラウンドを示す意味でも書き綴っていますので、是非色々閲覧してみてください。

先述した、当方が構造としての“映画愛”よりも、この作品で強く胸を打たれてしまったパンチライン、それは
「“ハッピーエンド”は映画の中だけのものなの?」
という問いに、
いや!そんなことはない!!
…と、はっきりと宣言する点ですね。でもそれだって映画の中のお話じゃん!って突っ込まれてしまうかもしれませんが、やっぱりエンターテイメントの基本は「笑顔」と「ハッピーエンド」に限る!と恥ずかしげも無く考えているタイプなので、スコセッシが正面切って「ハッピーエンド」を描き切った事に、素直な感動を覚えてしまいました。いや、もちろんピカレスクな話も好きだし、前回の更新の『ポエトリー』みたいな作品も好きですよ。でもせめてフィクションの世界だけでも「笑顔とハッピーエンド」が最高のエンターテイメントとして成立して欲しいじゃないですか。『宇宙人ポール』を「今年ベスト級!」と評価した最大のポイントはここにあります。

あまりの前評判の高さもあって、そこまで「大傑作!」と言い切るには、中盤ちょっとお話がダレるな~とか、全体的に登場人物がカリカチュアされ過ぎてないかな~とか、『(500)日のサマー』や『キック・アス』の頃のクロエ・モレッツたんは何処に行ってしまったのかな~とか、サシャ・バロン・コーエン大人し過ぎてつまんね~な~などなど、どうでもいい事も含めて言いたい部分も少なくは無いです。ただ、マーティン・スコセッシという映画バカが「映画、最高!!」と高らかに声を上げた、その意気は余りあるほど感じ取る事ができました。


<結論>
前評判を見て、映画ファンの為の“敷居の高い作品”と思われるかもしれませんが、決してそんな事はありません。音楽の使い方や演出の付け方は、日本人だったらジブリ映画的にも楽しめると思います。実際、カリオストロっぽい(とも言える)シーンもありますからね。今年の感動系大作映画の中では『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』と双璧を成す(構造も良く似てる)、上質な作品でした。アトラクションって言っても良いかもしれないですね。


次回はあの作品の本家スウェーデン版、『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』をレビューします。ハリウッド版とはまた違って、これまた素晴らしい作品でした。

長文映画レビューシリーズ 『ポエトリー アグネスの詩』



ポエトリー アグネスの詩

「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督が、アルツハイマー症に冒され徐々に言葉を失っていく初老の女性が一編の詩を編み出すまでを描いた人間ドラマ。孫息子ジョンウクを育てる66歳のミジャは、自分がアルツハイマー型認知症であることが告げられ、さらに女子中学生アグネスの自殺事件にジョンウクがかかわっていたことを知る。ショックを受けたミジャは、アグネスの足跡をたどっていくが……。
ーーー映画.comより抜粋


ちょうどテアトルの割引券を持っていたのと、イ・チャンドン監督の新作とあらば行かねばなるまい、という事で、かなり期待値が高い状態で鑑賞しました。平日の昼間の回だったにも関わらず、劇場は年配層を中心にかなりの入り。特に本作の主人公ミジャと同年齢くらいであろう淑女の皆さまが、鑑賞後に“割り切れない何か”を抱えて去っていく姿が印象的でした。

この『ポエトリー アグネスの詩』を語る上で、どうしても触れなければならないのが、監督であるイ・チャンドン氏の作家性。小説家出身らしい、独自色の強い作品を持ち味としていて、「難解ではあるが、物凄いモノを見てしまった…」と思わされる、こちらのみぞおちに強烈なボディーブローを放つ奇作ばかりを撮り続けてきた監督です。

なにしろですね、当方はイ・チャンドン監督の前作『シークレット・サンシャイン』に、オールタイムベスト級の思い入れがあります。平たく言えば、宗教の抱える矛盾への問題提起であり、「“救い”はあるのか?」というテーマを真正面から描き切った傑作中の傑作。『ぐるりのこと』の木村多江も連想させるような、人間心理の奥深さをこれでもかと表現するチョン・ドヨンの迫真の演技といい、緊迫感を見事なまでに創出する“長回し”といい、韓国映画らしい救いの無いお話…と見せかけて、最後の最後ではどこか温もりを感じられるストーリーテリングといい、ほぼ隙の無い素晴らしい作品。文字通り「天に唾吐く物語」を、クリスチャンの多い韓国で描いた事がまず凄いし、基本的には無神教に近い日本人にこそ“刺さる”物語でした。

で、『ポエトリー』も『シークレット・サンシャイン』の系譜を脈々と受け継いでいる…どころか、イ・チャンドン氏の独自色はさらに色濃くなって発露されています。極端に排除されたBGM、のどかな地方を舞台にした寂寥感、そして何よりも鑑賞後、みぞおちに突き刺さるボディーブロー。本作は『シークレット・サンシャイン』に輪をかけて強烈なラストが待ち構えていますので、その衝撃たるや、銀座をテリトリーとする淑女たちの視点が定まらなくなるのも必然と言ったところでしょう。

どうしようもなく寄る辺を失くした女性が、“詩”に救いを求めるお話。しかし…


多少のコメディ演出も挿入されているにも関わらず、もう本当に「寄る辺ない」お話でした。


※以下、多少のネタバレが含まれます※


冒頭はですね、同じ韓国オバサン系傑作映画(当方が勝手に言ってるだけです)『母なる証明』のキム・ヘジャの印象が後を引いてしまっていたのか、主演のユン・ジョンヒさんのお芝居がどこか平べったく見えて「ん?」と違和感を覚えていました。でも日本で言えばこの人、市原悦子さんそのものじゃなかろうかと思えてからは、この違和感は解消され、むしろ愛着すら湧いてきました。

や、選んだ画像に問題があるかもしれませんが、本当に雰囲気がそっくりなんです。

そしてこの少し平べったく見えるお芝居すら、娘を「友達」と呼び、問題の本質から目を背け逃避してしまう主人公ミジャの“弱さ”の表現として、監督の狙い通りだったと気付かされてしまいます。『シークレット・サンシャイン』でも、序盤から既に主人公の“病巣”をほのかに匂わせていたのと同様ですね。どこまでデキる男なんだ、イ・チャンドン。

とにかく極端にBGMが抑えられた静かな演出とあいまって、ミジャのあまりの寄る辺なさに胸が痛みっぱなしなわけです。遂に“ある一線”を超えてしまうシーンに至っては…「この映像、誰得!?」と胸の中で叫ばずには居られませんでした。まさかここまで、ある種のエクストリーム映像を見せつけられるとは…。
詩の勉強会のシーンも本当に胸が痛くて、「幸せな瞬間は…無かったです」と話すオッサンに「生きろ!」とこれまた叫びたくなる。ミジャもミジャで涙ながらに話す“最も幸せな瞬間”、それ物心ついた直後じゃねーかよ…。もうね、不憫としか言いようが無いんです。

『シークレット・サンシャイン』の登場人物たちは、明らかに宗教で救われてもいます(そこが単純な宗教DISではなく、問題提起たらしめている要素)。そして本作も、主人公は詩に逃避し、最初は「詩なんて分からない」と言いながらも、要所で確実に救われてもいる。それでもどうしても、その詩の世界にすら自分の居場所が無いと気付いてしまう。ラストだけは、まだ温もりが感じられた『シークレット・サンシャイン』とは180度と言ってもいいほど対照的。やはり、寄る辺ない…の一言でした。最後のミジャのあの詩、よく見ると色んな所で聞いた詩のつぎはぎだったりしてますしね。

<結論>
本作も相変わらず、鑑賞後に「楽しかった!」「感動した!」「泣けた!」なんて軽々しく口には出来ない問題作でした。“説明”は意識的に省かれているし、わかりやすい善も悪も存在しません。またラストにより救いが感じられない分、個人的な評価は『シークレット・サンシャイン』を上回るものでもありませんでした。
しかし間違いなく超強烈なボディーブローが飛んで来ますので、韓国映画ファンや、ありきたりな感動超大作系の映画に食傷気味の方は、是非劇場に足を運んで観て下さい。本当に強烈です。


次回は、『ポエトリー』とは真逆と言っていいほど、これでもかと「エンターテイメント」の正道をやりきった『ヒューゴの不思議な発明』のレビューとなります。ちょっと結論めいた事を言ってしまいますが、エンターテイメントに於けるハッピーエンドの重要性を痛感させられた、素晴らしい作品でしたよ。

2012/03/01

W杯アジア3次予選 日本vsウズベキスタン戦 雑感



今回は備忘録として。

■敗因

(1)海外組が移動、直前合流によりコンディション不良
(2)国内組もJリーグ開幕前で仕上り不足
(3)特にチームの心臓である遠藤保仁の低調
(4)交代投入選手が全く試合に入れず

まぁ色々とエクスキューズはあるものの、まず根本として、ウズベキスタン、強い。
思えば南アW杯の最終予選でも同組となり対戦した際も、ホームでは命からがらドローに持ち込んだ展開(先発で起用された香川はほぼ何も出来ず)。アウェーでの対戦は、中村憲剛の見事なアシストに飛び込んだ岡崎慎司が押し込み先制したものの、以後は一方的に圧倒され続け、耐えに耐えて南ア行きチケットを手にした試合でした。

昨日の試合もボランチの位置から縦パスが入ると必ず複数人でチェックに行き、前を向かせずボールを下げさせる。これを(疲労で多少緩む事はあっても)90分徹底していました。サイドはある程度やられても、そこまで精度の高いクロスが供給される事は多くない。だから中には切れ込ませないようにすれば、あとは中央の長身選手(昨日で言えばマイク)をしっかりマークしておけばOK、と。
主力を欠きながらこのクォリティで試合を進められるなら、ウズベクは今や、最終予選で争われるW杯へのチケット枠「4」に間違い無く絡んでくる強豪に成長した事は疑う余地が無いですね。

で、我らが日本はと言えば、パスの出所である遠藤保仁が仕上がっていない為、大きな展開も中々作り出せず。だから一旦中央で香川が下がってボールを受けるのだけど、ウズベクはそこを狙って執拗に絡み取りに来るので上手くいかない。時折、内田篤人や長友佑都の個人技でサイドを崩す事は出来ても、中は抜群の集中力で守り続けるウズベクDF陣に固められてしまっている。

ハーフナー・マイクは恐らく、ペナルティエリアの4~5m幅以上には大きく動かず、中央にしっかり位置取れと指示をされている。もう少し臨機応変に、楔のパスを受けに顔を出したりしても良かったとは思うが、この試合に限っては、シンプルに彼の高さを活かそうとはしなかった試合プランの進め方に問題があった様に思います。

とにかくウズベクは良く日本を研究していたし、プランを完遂するモチベーションも維持出来ていたし、彼らにとっては会心のゲームだった事でしょう。日本にとっては、ほぼ何も出来ず、完敗。毎年この時期の試合はピリっとしないものが多いし、幸いW杯本番までの時間は残されているので、このタイミングでアジア相手に「完敗」を味わえた事をプラスに変換して欲しいですね。


ただ、試合後に放送された某番組の影響か、ネット上ではフラストレーションをぶつけるかの様に議論が盛り上がっておりました。

・アジアの格下相手(北朝鮮、ウズベキスタン)に連敗したのだから、監督の責任問題!これで解任論が出ないのはおかしい!!
・この内容でスタジアムからブーイングが出ないのはおかしい!!“にわか”ばっかりで最近のスタジアムはヌルい!!

目にとまった意見には上記の様なものもありました。当方の意見は昨日Twitterで表明したのでここで改めて書く事はしませんが、特に「解任論」に関してはまだ性急かと。最終予選の立ち上がりにも躓くようなら、大鉈を振るう必要性もあるかもしれませんが。ザッケローニ監督はその経験上、我々が思う以上に自分が置かれている立ち場を理解している筈です。

で、「スタジアム論」に関しては、以前に当方も某所で長文を綴った事があって、色々と思う所もあります。特に古くからスタジアムに足繁く通い続けた来たサポーターからすれば、杓子定規に『バモ・ニッポン』を歌い続け、試合が終わればカメラ片手に選手へ近付こうと走り寄っていく様な姿を見せられると、「そうじゃねーだろ!!」と言いたくなる気持ちも分かるんです。でも我々がそうであったように、今、新しくスタジアムに足を運んでいる層も、あの空気に少なからず感化されている筈なんです。サッカー観戦の原風景として、刻まれるものがある筈なんです。

“コアサポ”と呼ばれる層も、“ミーハー”と言われる層も、“サッカー”という1点に於いてのみ、スタジアムでは確かに繋がっている筈なんです。双方から歩み寄る努力を止めるべきでないし、選手達は例え敗れてしまう事はあっても、観戦した者が何かを感じ取れる、また観戦したいと思わせてくれるプレーをピッチで披露して頂きたいものです。